幕府が政権を朝廷に返上した「大政奉還」は、窮した幕府が全面降伏を申し出たのではない。将軍慶喜は諸侯による合議体制の構築を意図していたとされる。大きく捉えるなら、独裁から民主への政治の流れが始まったのである。
「政権返上」を窮余の策ではなく、早い時期から積極的な方略として考えていたのは、幕臣の大久保一翁であり越前の松平春嶽であった。時は文久三年(1863)、幕府は朝廷から強固な攘夷要求を突きつけられていた。政権返上の覚悟で攘夷を拒否すべしと考える一翁は、春嶽への手紙を坂本龍馬という勝海舟の弟子に託した。
和歌山市舟大工町に「勝海舟寓居地」と刻まれた碑がある。昭和15年の建立である。
江戸で活躍したイメージのある勝海舟は、何のために紀州和歌山に滞在していたのだろうか。まずは、碑文を読んでみよう。
文久三年軍艦奉行勝安房守紀州藩海岸防禦工事監督のため幕府より和歌山に派遣せられし時此處に寓居す時に門下の阪本龍馬も亦来たりて事に従ふ
海舟は文久二年(1862)に、幕府海軍を統括する軍艦奉行を補佐する「軍艦奉行並」になり、元治元年(1864)に「軍艦奉行」に昇進した。したがって和歌山には、軍艦奉行並として海岸警備態勢の指導助言に来ていた。来和は文久三年4月3日のことである。その日の海舟の日記には、次のように記されている。江戸東京博物館史料叢書『勝海舟関係資料 海舟日記(一)』より
若山表江着、片原町福島屋平左衛門方旅宿、田中庄蔵諸事周旋、夜に入り御用人向笠三之助、書物方津田楠左衛門来る、友ヶ島防禦炮台の事を云、且明日伝法と唱別館にて、重役久野丹波守・岡野平太夫・佐野出羽守出会、海峡防禦之策を問ふ趣を申
紀淡海峡の防衛は幕末にあっては喫緊の課題だった。ここを外敵が突破すると、次は畿内、我が国の心臓部である。紀州藩は友ヶ島と加太を結ぶ防衛ラインを構築しようとしていた。そこで、勝海舟を招聘してアドバイスを受けたのである。
そのような中、10日付けの『海舟日記』に、当時は無名、今や国民的スターとなった人物が登場する。
藩人一両輩来たる
伝法の館にて、久野氏に友島炮台并海軍の事を談す
坂本龍馬大坂より来る
龍馬は、一翁から託された手紙を、京都に滞在している春嶽に届けようとしていた。4月3日に江戸から順動丸という幕府保有の蒸気船に乗り、9日に大坂に着いた。師匠である海舟のもとに立ち寄ったのが10日である。国事についてさまざまに語り合ったことだろう。役目を終えた海舟は13日に和歌山を離れた。同日付けの『海舟日記』である。
夕刻、小船にて紀の川より大坂江出帆、同夜内海を乗る
そして16日、『海舟日記』にもう一度龍馬が登場する。
龍馬越前江出立、村田江一封を遣す
京都にいると思っていた春嶽はすでに帰国していた。そこで、龍馬は越前に向かったのである。
和歌山のこの地に、海舟と龍馬の両雄が滞在したのは、ほんの数日である。そのことで歴史が動いたのか。動いたとは言えない。それでも、数年後の重要な局面で活躍する二人が、ここにいたことに意味がある。史跡を訪れる楽しみとは単純で、歴史人物の面影を追いかけているに過ぎないのだ。
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