「足さえやられていなければ…」と無念の言葉を残して討死した戦国武将、宇喜多基家は今、足の神様として信仰されている。平家方の武将、平景清が負傷した目を洗って治したという洞窟には、目の神様が祀られている。さて今回紹介する神様は、身体のどこに御利益があるのだろうか。
備前市吉永町金谷に「金谷首塚様」がある。石碑には「南無阿弥陀仏」と刻まれ、碑の前に小さな五輪塔がある。首塚だけに、頚部から上の病気におかげがあると信仰されている。
この首塚は信仰の対象になっているだけでなく、市指定の史跡でもある。いったい、どのような由来があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
首塚様由来
南北朝期南方に聳える馬転(うまころび)山城は三石城の支城にて、赤松円心公の支配なり。
延元三年(一三三八)四月新田義貞の大軍、吉永より金剛川に沿って民家寺のすべてを焼討し、馬転山城を攻め落城す。
金剛川原にて首実験の儀式を行い賞を定む。
北方の此地を選び埋葬して後三石城を攻める。世人首塚と云う。村人憐み厚く弔って今日に至る。
南北朝の合戦の一つで、双方の大将は北朝方が赤松円心、南朝方が新田義貞であった。だが、延元三年(1338)4月頃に義貞は越前方面を転戦しており、この年の閏7月には不慮の死を遂げる。したがって、延元三年は同元年の誤りだと思われる。元年4月に義貞は円心の白旗城を囲み、弟の脇屋義助は足利勢の三石城を囲んだ。この時の戦いにおける死者の塚なのだろう。
その頃、新田勢の先鋒は備中福山城にまで達し、足利尊氏の東上を阻止しようとしていた。しかし、新田勢の勢力拡大はここまでであった。白旗城と三石城は攻略できず、福山城でも敗北を喫し、新田勢は兵庫にまで退く。その後は湊川の戦で、足利氏の主導権が確立することとなる。
このような歴史の流れに位置付けるならば、金谷首塚様は新田勢の勝利を物語る貴重な史跡なのかもしれない。最近、春恒例のアレルギーのせいか、頚部から上の調子がよくない。首塚様、どうかよろしくお願いいたします。
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