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今はトラックが担う物流の主役は、かつて船であった。今は道路に代表される交通インフラは、かつて川であった。海上交通は今でもさかんだが、河川を利用する船は渡船か観光船くらいであろうか。今日は、かつて賑わっていた荒川の舟運について調べてみよう。
行田市下忍の下忍神社境内にある琴平神社に「新川早船絵馬」がある。市の有形文化財(歴史資料)に指定されている。
「新川」というのは地名で、今の熊谷市新川に相当する。ところが、今ここは荒川の河川敷である。かつての賑わいなど想像できないが、荒川舟運の拠点だったことは絵馬でビジュアルに知ることができる。行田市教育委員会の説明板を読んでみよう。
本絵馬は明治六年に琴平神社に奉納されたもので、江戸時代から明治初頭にかけて賑わった新川河岸(しんかわかし)に関わる人々が奉納したものである。
絵師は岩田霞岳(かがく)で、中央には早船の様子、左上には河岸問屋の様子が描かれ、下半部には奉納者の名前と国・村名が列記されている。当時の荒川舟運や新川河岸の様子、金比羅信仰の様相等を示す貴重な資料である。
江戸に向けての下り荷は米や大豆、炭などで、江戸からの上り荷は塩や織物、日用雑貨だったという。また、秩父の木材も荒川で江戸へ運ばれた。荒川は江戸の生命線ともいえる重要な役割を担っていたのだ。
実はこの荒川、その昔はもっと東を流れていた。埼玉県内に「元荒川」という川があるが、これがかつての本流だった。荒川の流れを変える「西遷」を行ったのは、この人物である。
鴻巣市本町八丁目の勝願寺に「伊奈忠治墓」がある。父の忠次の墓とともに「伊奈忠次墓」として県の史跡に指定されている。
伊奈かっぺいというすごいタレントがいるが、何ら関係がない。荒川舟運の恩人、伊奈忠治の事績を埼玉県教委と鴻巣市教委連名の説明板で確認しよう。
伊奈忠治(ただはる)は忠次の次子。元和四年(一六一八)関東郡代を嗣ぎ、武蔵国赤山(現埼玉県川口市)に陣屋を構え七千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、港湾の開さく等に努めた。その在任は三十五年の長きに及び、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績はきわめて大きい。承応二(元年とも)年(一六五三)六月、六十二歳で没した。法号は長光院殿東誉源周大居士。
この「河川の付け替え」が、寛永六年(1629)の荒川の瀬替え(西遷)である。今の熊谷市久下のあたりで流れをせき止め、南側に河道を開削するという巨大プロジェクトであった。その他、鬼怒川と小貝川の分流や江戸川の開削も、忠治の特筆すべき功績であろう。
かつて賑わった舟運を衰退させたのは、明治中期からの鉄道網の発達である。鉄道輸送の黄金時代は長く続いたが、高度経済成長期から道路網が整備され、トラック輸送が主流となった。今後はどうなるのか。まさかドローン網が発達するなんてことに…ならないだろう。