岡山県の吉備高原に首都機能を移転してはどうか。近年、地質学者が提唱しているそうだ。なんでも、ここは大陸と同じ性質を持つ長期安定陸塊とのこと。ぜひとも、その方向で進めていただきたい。
さあ、皇居はどこにするか。我が国の象徴だけに、やはり、ど真ん中がよいか。政府機能の移転のみに止まることなく、天皇陛下を吉備高原にお迎えし、名実ともに「首都」にしようではないか。
本日は南北朝時代、南朝の天皇が10か月ほど皇居としたお寺を紹介しよう。当時、実質的な首都機能を有していたのは、北朝の京都であった。しかし、南朝を正統とするならば、河内の山深い里が首都だったと言えるのかもしれない。
河内長野市寺元に観心寺がある。「観心寺境内」として国の史跡に指定されている。
訪れたのは11月末で、史跡巡りに紅葉が彩りを添えてくれる。三日市町駅から歩いた疲れは、いつの間にか気にならなくなっていた。
観心寺には、高僧、忠臣、女院など有名人物ゆかりの地があるが、もっとも重要なのがここだ。
山門を入って右手に「後邨上天皇御舊趾」と刻まれた石碑がある。分かりやすく書くと「後村上天皇御旧跡」で、かつて「惣持院」という塔頭があった場所である。
後村上天皇は南朝2代目の天皇で、父は有名な後醍醐天皇である。即位したのは延元四年(1339)。南北朝の対立は決着に向かうどころか、足利氏の内訌により混迷を極める。吉野、賀名生、金剛寺と行宮を移さねばならなかった。そしてまた、楠木正儀(正成の子)と和田正武(楠木一族)が、次のように天皇に申し上げた。『太平記』巻第三十四「和田楠軍評定事付諸卿分散事」を読んでみよう。
天地人の三徳、三乍(みつなが)ら違(たが)ひ候はゞ、縦(たとひ)敵百万の勢を并(あはせ)て候共、恐に足ぬ所にて候。但(ただし)今の皇居は、余(あまり)にあさまなる処にて候へば、金剛山の奥、観心寺と申候処へ、御座を移し進(まゐら)せ候て、正儀(まさのり)正武(まさたけ)等は、和泉河内の勢を相伴ひ、千剱破(ちはや)金剛山に引籠り、龍山(りうもん)石川の辺に懸出(かけいで)々々、日々夜々に相戦ひ、湯浅、山本、恩地、贄河(にへかわ)、野上、山本の兵共は、紀伊国守護代、塩冶中務(えんやなかつかさ)に附(つい)て、龍門山(りうもんせん)最初峰(さいしょがみね)に陣を張(はら)せ、紀伊川禿(かぶろ)辺に野伏(のぶし)を出(いだし)て、開合(ひらきあは)せ、攻合(せめあは)せ、息をも継(つが)せず令戦(たゝかはしめ)、極(きはめ)て短気なる坂東勢共、などか退屈せで候べき。
敵に天の時、地の利、人の和が一致していないならば、たとえ百万の軍勢であっても、恐れるに足りません。ただ、今の皇居はあまりにも無防備ですので、金剛山の奥にある観心寺というところにお移りになり、私どもは和泉・河内の軍勢を従えて、千早城や金剛山に立てこもって、龍泉寺(富田林市)や石川(南河内郡)周辺をたびたび攻撃し、日夜戦い続け、また湯浅、山本、恩地、贄河、野上、山本の兵士らは紀伊国守護代の塩冶中務に属し、龍門山や最初が峰(ともに紀の川市)に陣を構え、学文路(かむろ、橋本市)のあたりにゲリラ兵を出して、押したり引いたりしながら息つく間もなく戦うならば、キレやすい坂東武者(北朝勢)は、うんざりしないわけがないでしょう。
正平十四年(1359)12月に、天皇は観心寺の惣持院にお入りになった。この頃から南朝の勢力は徐々に持ち直し、翌年9月に天皇は観心寺を出て、住吉行宮(大阪市住吉区墨江二丁目)に進出することとなる。正平十六年(1361)には南朝が一時的に京を回復するものの、その後、北朝優位の大勢は覆ることがなかった。
観心寺境内の奥に「後村上天皇檜尾陵(ひのおのみささぎ)」がある。
正平二十三年(1368)、後村上天皇は住吉行宮で崩御し、御遺骸は観心寺に運ばれ、荼毘に付された。この地なら安全性が確保できると判断されたのであろう。忠臣楠木正成の首塚があるので、天皇も安らかに眠れると考えられたのかもしれない。
四つの海 波もをさまる しるしとて 三つの宝を 身にぞつたふる
『新葉集』1425
後村上天皇御製である。平和の象徴である三種の神器は私に伝わっている。私こそ天の下をしろしめすにふさわしい帝王なのだ。神器を継承する正統として、天皇は誇り高く詠じていた。
聖代と称揚された延喜・天暦の治を行った醍醐天皇と村上天皇。その名を受け継ぎ聖代を再現しようとした後醍醐天皇と後村上天皇。理想と現実とのギャップはあまりにも大きかった。現実を踏まえなければ、物事は進まない。だた、理想を追い求め徹底抗戦した南朝の姿勢には敬意を表したい。