書道に詳しい人なら「伊都内親王願文(いとないしんのうがんもん)」をご存知であろう。格調高い行書で、三筆の一人橘逸勢の筆跡と伝えられている。運筆のリズム感が絶品だというが、私には分からない。
願文の内容は天長十年(833)、内親王が土地を現在の興福寺に寄進した際に極楽往生などを願ったものだが、本日の記事には関係ない。関係があるのは、伊都内親王の旦那が「阿保親王(あぼしんのう)」で、二人の間の子が「在原業平(ありわらのなりひら)」だということだ。
芦屋市翠ケ丘町に「平城天皇皇子 阿保親王墓」がある。宮内庁が管理している。
阿保親王の人生を狂わせてしまったのは、有名な「薬子の変」である。時は大同五年(810)、藤原式家の薬子とその兄である仲成は、平城上皇と結んで平城還都を画策した。嵯峨天皇から実権を奪取するクーデターである。
事件は天皇側の果断な対応により未然に防がれ、薬子は自殺、仲成は射殺、上皇は剃髪という結果に終わった。この巻添えとなったのが阿保親王である。上皇の第一皇子であるため危険視され、大宰権帥(だざいのごんのそち)として都から遠ざけられた。
平城上皇は天長元年(824)に崩御。都への帰還が許された阿保親王は伊都内親王と結ばれ、翌二年(825)に業平が生まれた。さらにその翌年、親王は叛意のないことを示すため、行平や業平らの兄弟を臣籍降下させ、「在原」の姓を賜ったのである。
在原行平については、松風村雨という美人姉妹との物語が須磨にある。業平は兄以上のプレイボーイで、有名な『伊勢物語』の主人公「昔男」と考えられている。その『伊勢物語』第八十七段の冒頭である。
昔、男、津の国、莵原(うばら)の郡、蘆屋(あしや)の里に、しるよしして、行きて住みけり。
昔男は芦屋に領地があったというのだ。その領地は、父である阿保親王から受け継いだものだったのだろうか。
芦屋市打出町に「阿保山親王寺」がある。実に分かりやすい名称で、阿保親王の別邸跡に建立されたから、このように号したという。
写真は親王寺の境内に見られる寺紋「一文字三星」である。阿保親王に贈られた位階「一品」を図案化したものだという。どこかで見たことがあると思ったら、長州藩毛利氏の家紋でもあった。いったい、どういうことか。
一文字三星の家紋は、毛利氏の先祖である大江氏が使っていた。大江氏は「菅家(かんけ、菅原氏)」と並ぶ学者の名門で、その「江家(ごうけ)」の始祖となったのが、大江音人(おおえのおとんど)である。
大江音人は阿保親王のご落胤で、大枝氏(音人の代から大江氏)の養子となったという。このため大江氏は、阿保親王ゆかりの「一文字三星」を家紋とし、毛利氏がそれを受け継いだ、と説明される。
親王寺に伝えられた『阿保山親王寺縁起(附阿保親王伝記)』の伝記には、「阿保親王同年(承和九年)十月二十二日壬午、於摂津国莵原郡蘆屋庄打出村薨御」とある。ここ打出の地で亡くなったというのだ。
しかしながら阿保親王墓こと「阿保親王塚古墳」は、4世紀後半築造の円墳で三角縁神獣鏡が出土しているという。宮内庁の公式見解では親王の墓だが、実際には違うのだ。しかも正史『続日本後紀』巻十二の承和九年(842)十月二十二日条には、亡くなった場所が記されていない。
いま芦屋市には「親王塚町」という地名があり、高級住宅街とのイメージに、親王も住んでいたという言い伝えが花を添えている。おそらくは、昔男が芦屋に住んでいた、という『伊勢物語』の話から、在原業平とのゆかり、そして業平の父である阿保親王の伝説が生じたのであろう。
親王は死に際して「一品」を贈られた。これは同年に起きた「承和の変」で、事態の重大化を未然に防いだ功績によるものである。この政変で失脚した橘逸勢が親王の妻である伊都内親王のために書いた願文が、名筆「伊都内親王願文」であった。現代から見れば皮肉な結果だが、親王が求めていたのは、平和的解決だったことは間違いなかろう。