B-29とは、我が国にとって忌まわしい空襲の象徴である。高射砲が届かない高空を飛ぶことができ、しかも、航続距離が長い。終戦までに延べ3万3000機が爆撃に出動したという。高性能とはいえ、常に無事に帰還できたわけではない。今日は墜落したB-29ゆかりの史跡を訪ねよう。
岡山市南区宮浦に「米兵の墓標」がある。知る人ぞ知る戦争遺跡である。
岡山が空襲を受けたのは、昭和20年6月29日未明のこと。市街地の大部分が焼失し、死者は1,700名以上にのぼった。このことから岡山市では、毎年6月29日に戦没者追悼式が開催され、戦後70年の平成27年には式典に続いて平和講演会も行われた。
お話されたのは、岡山空襲の体験者であり、今年亡くなったアニメ映画監督、高畑勲さんであった。『火垂るの墓』の空襲シーンには、当時9歳の高畑さんの記憶が生かされているそうだ。
私の母は当時倉敷にいたが、岡山方面の空が赤くなっているのを見たと言っている。今も市街地に空襲の痕跡はいくつか残っており、都市に対する無差別な攻撃の惨禍を伝えている。
では、周辺部は何事もなかったのか。そうではなかったことを物語るのが、本日紹介の十字架である。昭和48年発行の『岡山戦災の記録1』野村増一「ある引揚者による岡山戦災の記」に、次のような記述がある。
焼夷弾による攻撃は、くりかえしくりかえしおこなわれ、約二時間のあいだに、のべ七〇機が約六〇,〇〇〇個をばらまいた。この間、高射砲は一発も鳴らなかったといわれるが、それでも、児島湾対岸の宮浦の山腹に一機が墜落し、乗員八名が死んでいる。あるいは途中で被弾していながら、爆撃を終えての帰りみちに落ちたのかも知れない。いま、そこには十字架の供養塔がたっている。
乗員8名とあるが、現在では搭乗員11名全員の死亡が確認されている。墜落の原因も高射砲による反撃ではないようだ。ただ、地元の方が散乱する残骸を片づけ、遺体を葬ったことだけは確かなようだ。戦後、進駐軍が現地に来て、遺体や遺品を持ち帰ったという。
賑わう岡山市街と穏やかな宮浦の山中。戦争があったことなど信じられないくらいだ。だが、現実にあったことだし、今後もある可能性は否定できない。恩讐の彼方にひっそりと立つ十字架が、そのことを教えてくれる。
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