子どもの頃、屋根裏に天狗の面が掲げられていた。おまじないか何かだろう。怖いというか、見てはいけないものを目にした時のような後悔の念を憶えている。
そんなことと比べるのもおこがましいが、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という足軽が磔になった絵も強烈な印象だ。憤怒の形相をした不動明王のように見える。その強右衛門の居宅跡があるというので訪ねてみた。
行田市忍二丁目に「鳥居強右衛門居宅跡」がある。「忍藩家老」とあるから、磔となった強右衛門ではないようだ。
まずは、強右衛門はなぜ磔になったのか、をおさらいしよう。確かな情報は教科書に求めるべきだろう。大正時代の国定教科書『尋常小学読本』巻十二の第七課に「鳥居勝商(かつあき)」が掲載されている。状況を説明してから教科書本文を引用する。
時は天正三年(1575)五月、家康の命により長篠城を守る奥平信昌は、武田勝頼勢に囲まれ身動きが取れなくなっていた。この状況を知らせてくれる者はいないか。これに応えたのが鳥居強右衛門勝商であった。強右衛門は城を抜け、家康と信長から援軍の約束を取り付けた。ところが、帰城には失敗。敵に捕らわれてしまう。
勝頼、勝商に向ひていふ、「明日城門に行きて、『援軍来らず、速に降るべし。』と告げよ。さらば我必ず重く汝を賞せん。」と。
翌日壮士十余人、勝商を囲みて城門に到る。勝商城に向ひ、高らかに号んで曰く、「諸君、憂ふることなかれ。徳川・織田二公大軍を率ゐて、既に出発せらる。囲の解けんは二三日の内にあらん。」と。勝頼怒りて之を殺せり。
この教材を全国の6年生が学んだ。強右衛門は忠義の士として、その名を広く知られたのである。強右衛門の死後、鳥居家はどうなったのか。大澤俊吉『行田史跡物語』を読んでみよう。
その強右衛門勝商は磔死したが、その子信商は士分に取り立てられ、松平家初代忠明公に仕えて禄高千石の家老となった。そして代々家老か、御用となって十二代商近の時、桑名から忍に来てこの地を居宅とした。
もう少し説明しよう。強右衛門勝商が仕えていたのは奥平信昌であった。勝商の子である強右衛門信商は、信昌の4男で家康の養子となった松平忠明に仕えた。こうして、鳥居強右衛門家は代々、忠明を祖とする奥平松平家(松平下総守家)に仕えたのである。
松平忠明は大坂の陣後に大坂城主となったことで知られるが、奥平松平家は大坂以後転封が相つぐ。列挙すると、摂州大坂→大和郡山→播州姫路(ここまで初代忠明)→羽州山形→下野宇都宮→奥州白河→羽州山形(ここまで2代忠弘)→備後福山→伊勢桑名(3代忠雅以後9代忠堯まで)→武州忍(13代の時廃藩)となる。
いっぽう代々強右衛門を襲名した鳥居家は、12代強右衛門商近が藩主とともに忍に移った。13代強右衛門商次は、慶応四年三月十一日、戊辰戦争で官軍が押し寄せてきた際に活躍したという。再び、大澤俊吉『行田史跡物語』である。
帰順の意を表し、その旨の誓書を差出すこととなった。家老五名が署名すると署名は一人との事、万一の事あれば切腹覚悟というわけである。家老はお互に顔を見合せたが、強右衛門が進み出て一人署名したという。さすが“武士の鑑”といわれた強右衛門の子孫であると、後々までの語り草になったという。
鳥居強右衛門は単なる戦国時代のエピソードではなかった。祖先を誇りに思い、それぞれの時代を精一杯生きた人々を知ることができた。ビル前の小さな石碑が、人生の在り方を示唆しているように思える。
ご覧いただきまして誠にありがとうございます。
行田を旅した折に見つけ、なぜここに?という思いで、調べたことを記事にしました。
戦国の一つのエピソードが、幕末にまでつながるところに歴史の醍醐味を感じます。
投稿情報: 玉山 | 2023/06/19 22:29
大河ドラマで鳥居強右衛門さんのことを見ました。埼玉県民なもので、行田市の鳥居家との関連が知りたかったので、分かってよかったです。大河ドラマの鳥居強右衛門さんを思い出すと、感動で泣けてきそうになります。鳥居強右衛門さんは、本当に素晴らしい人物だと思います。
投稿情報: E | 2023/06/12 00:25