財務官僚の耳をふさぐような不祥事がニュースをにぎわせた。江戸幕府の官僚、お代官様がこれを知ったなら、「そちもなかなかのエロよのう」と言うだろう。ワルだとかエロだとか冷酷だとか、ろくでもないイメージの多いエリート官僚だが、本日は今日まで地元の人々に慕われている名代官を紹介しよう。
真庭市久世に市指定史跡「久世陣屋跡」があり、指定地内に「贈正五位早川君像」が建立されている。銘板は犬養毅の書である。
「早川君」とは、早川八郎左衛門正紀(まさとし、まさのり)という幕府代官である。昭和3年の昭和天皇の即位礼に伴い、正五位を贈位された。代官像は昭和7年に完成した。
真庭市久世にある重願寺の山門は「久世陣屋門」で、歴史資料として市の文化財に指定されている。薬医門様式で、久世陣屋唯一の遺構である。
享保十二年(1727)、津山藩は無嗣断絶で改易となるところ、その家柄ゆえに石高半減により5万石で存続が認められた。久世地域は天領となり幕府代官が治めることとなった。
文化十四年(1817)、津山藩は11代将軍家斉の子を養子に迎え、5万石加増により10万石に復した。これにより久世地域は津山藩領となり、陣屋は廃止された。その後、陣屋門は重願寺の山門として移築された。
真庭市台金屋(だいかなや)に「早川代官遺愛碑(早川代官関係資料)」がある。歴史資料として市の文化財に指定されている。
久世陣屋の置かれた享保十二年から文化十四年までに、22代の代官が赴任してきた。そのうち最も長く務め、最も有名な代官が、第二十代の早川八郎左衛門であった。
早川代官が羽州尾花沢から作州久世に転入したのは、天明七年(1787)のことである。14年間代官の職にあり、この間、備中笠岡代官と倉敷代官も兼務した。享和元年(1801)に武州久喜に転出した。
久世時代の事績として特筆すべきは、『久世条教』を著し農民の教化に努めたことだ。この啓蒙書は次のような七箇条から成る。
「勧農桑(のうそうをすすむ)」
「敦孝弟(こうていをあつくす)」
「息争訟(そうしょうをやむ)」
「尚節倹(せっけんをたっとぶ)」
「完賦税(ふぜいをまっとうす)」
「禁洗子(せんしをきんず)」
「厚風俗(ふうぞくをあつくす)」
このうち「禁洗子」では、次のように記されている。
天と地と人とを合せて三才といふ。天は父、地は母、人は子也。人は天地の子なる故、その子たる人の為に、日月星の三光日夜行道怠るなく、地は天にしたがひて、陰陽寒暑の往来少しもたがはずして、五穀草木禽獣その外ありとあらゆるものを成育し給ふ事、みな人の為に無窮に勤給ふなり。此故に天地は人の父母といふ。父母は我ための天地なれば、我子をあはれむは天の道也。罪なき人を殺す事は天の悪(にく)み給ふがゆゑ、天にかはりて上様より賞罰を行給ふ也。然るを此美作の人はむかしより習はしとて、間引と唱へ我子を殺す事いかなる心ぞや。天地の道に背たる仕業なり。
天地は父母、その間にいる人は子である。日や月は絶えることなく動き、昼夜や季節は規則正しく巡ってくる。だから、五穀や動植物は育つことができる。人間とて例外ではない。だから、父母が子育てに力を入れるのは天の道にかなうことなのだ。罪なき人が殺されることを天は許さないから、天の代わりに上様が罰してくださる。ところが、ここ美作の人は昔からの習わしだとして「間引き」つまり我が子を殺すことがある。いったいどのような心をしているのか。天の道に背くことである。
早川代官は子育ては自然の理であると説き、「間引き」を固く禁じたのである。しかし、子どもが生まれることで困窮する家族がいることも現実だ。代官は次のように説得した。
三子を産よし御聞に達すれば、貧富御糺の上貧なるものなれば、時刻を不移鳥目(ちょうもく)五十貫文被下事外の儀にはあらず。いかなる貧ものにても、二子までは母の乳房二ツにて養育すべけれども、三ツ子に至りては一人だけの乳房不足する故、其一人の養育手当として被下儀にて、上には赤子一人といへども如斯大切に被為遊ほどの儀なるを、親の身として子を殺す事言語道断の悪事也。
三つ子が生まれたなら、調査のうえ貧困家庭であれば、すぐに銭50貫支給する。いかに貧しい者でも、二子までは母の乳房二つでそれぞれ養育できるが、三つ子では一人の乳房が不足するので、その一人分の養育手当を支給するものである。おかみは赤子一人といえどもこれほどまでに大切になさっているのだから、親の身として子を殺すなど言語道断の悪行である。
このように民衆を正しい道へ導く徳の高い代官だったから、文化五年(1808)に早川代官が江戸で亡くなったと聞いた久世の人々は大いに悲しみ、三回忌に当たる文化七年(1810)に遺愛碑を建立した。碑文の一部を引用しよう。
莅政之初聞邦俗生子多不育下令禁之除其陋習
行政を始めるにあたり、この地方では、子を産んでもその多くを育てない習俗があると聞いた。そこで、これを禁じ、その悪習をやめさせた。「典学館」という学校をつくり、親には人の道を、農民には勤勉を説いた。関東に転任することとなり久世を去る日には、領民は境を越えてまで見送ったという。
遺愛碑の隣に市指定史跡「明親館跡」を示す碑がある。ここは早川代官に直接関係なく、むしろ山田方谷とのゆかりが深い。説明板には次のように記されている。
明治三年(一八七〇)津山藩の目木触(ふれ)・河内触有志の発起により両触の郷学として、早川代官ゆかりの地に創設されました。備中聖人と称された山田方谷を顧問に、方谷の門人を講師に迎えました。
死後数十年を経ても、地元の人々は早川代官とのつながりを意識していた。明治五年の学制に先駆ける教育施設であったが、翌六年の新政反対一揆(血税一揆)で焼き討ちに遭い、廃止されてしまう。それでも、この学校に掲げられていた山田方谷揮毫の額「出自幽谷遷于喬木」は、旧遷喬尋常小学校の校名の由来となり、今も同名の小学校が存続している。
久世の遺愛碑と同様な顕彰碑が、岡山県笠岡市と埼玉県八潮市にも建てられているという。鍋奉行に灰汁代官とか、どうも、いい呼ばれ方をされないお代官様だが、私たちは、子育てと教育という普遍的な価値ある施策を重点とした名代官がいたことを忘れてはならない。
久世では、特産の新高梨を「代官梨」という名でブランド化した。代官の人徳は未来の人の心を動かし、味蕾(みらい)をも刺激している。
「ダジャレでオチにしたいわけじゃな」
「めっそうもございません、お代官さま」
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