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今年3月、埼玉県北足立郡の伊奈町が「忠次公〜ふるさと伊奈と青い空〜」というPRソングを作成した。聴けば「青い空」にふさわしいテンポのよい曲で、振り付けまであるから本格的だ。国の地方創生推進交付金130万円を活用して制作したという。
鴻巣市本町八丁目の勝願寺に「伊奈忠次墓」があり、県の史跡に指定されている。
4基あるが、左から伊奈忠次、子の忠治、忠治室、忠次室の墓である。忠次が亡くなったのが慶長十五年(1610)だから、すでに四百年以上経っている。にもかかわらず、爽やかな歌になるほど人気なのはなぜか。戦国大名のような不世出の英雄ではない。徳川家康の家来である。埼玉県教委と鴻巣市教委連名の説明板を読んでみよう。
伊奈忠次は三河国幡豆郡小島の城主伊奈忠家の嫡子として生まれた。初め徳川家康の近習となり、のちに関東郡代に任ぜられ、武蔵国鴻巣・小室で一万石を賜わった。関東各地を検地し桑・麻・楮(こうぞ)の栽培や水利の便を開く等、関八州は彼によって富むといわれた。茨城県結城地方特産の紬織(柳条紬)もその奨励によるものである。
彼の功績は江戸幕府財政の基礎を定めたことで、その検地徴税の方法、すなわち、地方(ぢかた)の方式は伊奈流と云って江戸幕府地方(ぢかた)の基本となった。慶長四年(一五九九)従五位下に叙せられ備前守に任ぜられた(のち大正元年正五位を追贈)。慶長十五年(一六一〇)六十一歳(五十七歳とも)で没した。法号は勝林院殿秀誉源長久運大禅定門。
水を治める者は、天下を治める。暴れ川の多かった関東の地で家康が成功を収めたのも、伊奈忠次の働きによるところが大きい。埼玉県内に「備前堤」とか「備前堀」という治水構造物があるが、これは忠次の官名「備前守」に由来する。また、「伊奈町」という町名が忠次に由来するのは言うまでもない。
我が国第一の大河、利根川はかつて東京湾に流れ込み、たびたび洪水の被害をもたらしていた。これを現在のごとく銚子に向かうよう流路を変更したことを「利根川東遷」という。完工は承応三年(1654)であるが、その端緒は文禄三年(1594)の会の川締切りである。これを指導したのも忠次であった。その場所は羽生市にあり、「川俣締切跡」として県の旧跡に指定されている。
このことはPRソング「忠次公〜ふるさと伊奈と青い空〜」でも、「利根の流れを変え 豊かなむさし野へ」と歌われている。最近の安倍内閣があまり言わなくなった「地方創生」は、またの名を「まち・ひと・しごと創生」という。忠次公は人を集めて仕事を与え、町をつくった。江戸という地方を創生し、東京という首都へと導いたのは、忠次公なのかもしれない。
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