「男たちの大和」という映画はあるが「男たちの武蔵」はない。「宇宙戦艦ヤマト」というアニメはあるが「宇宙戦艦ムサシ」はない。どちらも史上最大級と言われ、同じく浮沈艦と思われながらも撃沈されてしまった。武蔵はもっと注目されてよいのではないか。
大和よりも先に沈んだ武蔵ゆかりの地が、海のない埼玉県にあるという。さっそく行ってみよう。
さいたま市大宮区高鼻町一丁目に鎮座する氷川神社の三の鳥居の近くに「戦艦武蔵の碑」がある。
自動車といえば交通安全。事故を起こしてはならないし、巻きこまれたくもない。穏やかな心でつつがなく運転できるよう、神社で自動車のお祓いをすることがある。船だって同じだ。遭難することのないよう好天を祈り、荒天のなかでも無事を祈った。船と神社はけっこう近しい関係にある。
ましてや戦艦なら、武運長久を祈らねばならない。勝敗を左右するのは、軍事力や戦略もさることながら、偶然の要素も大きい。武運は祈りによって降りてくるものである。
あの戦艦大和の艦内には、天理市新泉町の大和(おおやまと)神社が分祀されていた。現在の大和神社には「戦艦大和ゆかりの神社」と刻まれた石碑が建てられている。では、戦艦武蔵はどうなのだろうか。碑文を読んでみよう。
戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。
パナマ運河幅の制限から、四十cm(十六インチ)を超える主砲を持つ戦艦を建造できない米海軍の弱点に注目し、主砲四十六cm砲三連装砲塔三基を搭載した世界最強かつ最大の戦艦として建造された。武蔵誕生に到るまでには多くの技術的困難があり、関係者の苦労は並大抵のものではなかった。また、海軍の指示により建造造船所である三菱重工業は、所員に対する緘口令等、建造秘匿の徹底を図った。
昭和十七年八月五日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より六名の神職が出向し、式が厳しく執り行われた。艦内神社には、氷川神社が分祀され武蔵神社と命名された。
昭和十九年十月十七日「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力が艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指した。武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に引き受け、十月二十四日シブヤン海に没した。同作戦により戦艦武蔵の乗員千三十九名戦死、生存千三百二十九名もマニラ防衛戦等に投入され、最終的に祖国の土を踏めた者は四百三十余名と言われている。ここに戦艦武蔵を顕彰し、碑建立に協賛、賛同するものである。
平成二十七年十月二十四日建立
戦艦武蔵顕彰会
この石碑は、戦艦武蔵が沈んでから70年となる平成26年に企画された。「世界最強かつ最大の戦艦」とはいえ、制空権のない場所での戦闘継続は困難だった。あたかも義経の前に立ちはだかった弁慶のように、敵の攻撃を一身に受けた。それでも被弾数の割には、長く沈まなかったとも言われる。帝国海軍の終焉の一つがここにあった。
戦艦武蔵の艦内神社は「武蔵神社」といい、氷川神社を分祀したものだという。氷川神社は武蔵国を代表する一宮だ。私がお参りしたのは11月で、七五三の家族連れが多かった。まさに平和を象徴する光景である。
戦艦武蔵を建造した世界最高技術は我が国の戦後復興を助けた。以来、武運長久を祈らずとも、平和を享受できる時代が長く続いている。激しく戦ったアメリカは今、同盟国である。状況は大きく変化しているが、平和を願う人の心は昔も今もまったく変わりがない。
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