大東亜戦争に敗北した近代日本は、帝国憲法を改正し「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めた。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。絶対に負けることのない崇高な理念で、国を守ることとしたのである。
白村江の戦いに敗北した古代倭国は、北九州、瀬戸内、畿内にかけて朝鮮半島の最新技術を取り入れた山城を築き、防衛システムをネットワーク化して国を守ることとしたのである。
高松市屋島西町の浦生(うろ)地区に「屋島城趾」と刻まれた石碑があり、その向こうに石塁が続いている。
屋島は屋根のような美しい形をしており、地学的には「メサ」と呼ばれる溶岩台地である。このことから国の天然記念物に指定されているが、屋島城跡、屋島寺、屋島古戦場と歴史にも関わりが深いので、国の史跡にも指定されている。
この城跡には、どのような意義があるのか。高松市教育委員会による説明板を読んでみよう。
屋島城跡は、「日本書紀」の天智天皇六年(六六七)十一月の条に「倭国の高安城・讃吉国山田郡の屋嶋城・対馬国の金田城を築く」との記事にある古代の山城である。
当時、朝鮮半島の新羅により半島が統一され、六六三年の白村江の敗戦によって、国内に大陸や半島からの侵攻が予想された。このため対馬から北九州、瀬戸内を経て大和に至る要所に築城し、防衛力を強化した。屋島城は、瀬戸内東西の中間地点で、備讃海域を防衛するうえで、重要な城であった。
現在、屋島城跡に関係する遺構には、標高一〇〇mの山腹に谷川と直角に交わる石塁と、その北西に、ほぼ三段に盛土した瘤状の櫓台と推定される遺構がある。ここから備讃海域の視野は広く遠望もきく。
当時の仮想敵国である新羅に備え、侵攻経路に沿って整備された防衛施設だったのだ。現代で言えば、地上配備型のミサイル迎撃システム「イージス・アショア」だろうか。
イージス・アショアならレーダーで弾道ミサイルを捕捉するが、屋島城は目視により敵船接近を確認するのである。来襲があるとすれば西側からだ。その眺望がこれだ。
左に高松港コンテナターミナル、右に女木島、ずっと向こうにおにぎり形の大槌島が見える。
監視によし、狼煙を上げて敵襲を報せるのにも、またよしである。では、実際に敵が上陸したら、どうするのか。
高松市屋島東町に「屋嶋城(やしまのき)城門跡」がある。高い石垣で侵入を防ぎ、排水口を設けて雨水に備えている。
浦生地区の説明板には「現在、屋島城跡に関係する遺構には」とあるが、城門については記載されていない。というのも、この地区の石積みは平成10年に発見され、発掘調査を経て復元整備が行われ、平成28年から一般公開が始まったのである。翌年すなわち2017年は屋嶋城築城1350年に当たり城門が注目され、浦生地区の石塁に代わって屋嶋城のシンボルとなった。
抜くに抜かれぬ堅城であり、その抑止効果があったのか半島からの敵国侵入はなく、古代日本の防衛システムが実際に運用されることはなかった。
さて、現代日本の防衛システムも半島からのミサイルを警戒するのだが、最近は疑問の声が上がっている。
「そもそもミサイルを迎撃できるのか」という根本的な問いに始まり、米朝融和による危険性の低下、武器商人トランプ大統領の金づるになることへの疑問、強力な電磁波に対する懸念など、さまざま理由から、配備候補地の秋田、山口両県の理解は得られていない。
防衛システムを構築することで抑止力が生まれるのか、単に防衛費の無駄遣いに過ぎないのか。使われなかった屋嶋城跡から、我々は何を学べばよいのだろうか。
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