向かう先に立ちはだかる大きな壁。WCサッカーでは日本にとってベルギーが壁となったし、人生だって壁にぶつかることがある。つか、ぶつかってばかりだ。
壁を越えて視界に入ったゴールほど、人のモチベーションを高めるものはない。ハンニバルはアルプスを越えた時に、どう思っただろうか。義経は大坂を越えた時に、どう思っただろうか。
高松市高松町に「義経鞍掛松」がある。隣のお堂は鞍掛地蔵尊という。
北側には屋島がでんと構えている。源平合戦の名場面の一つ、屋島の戦いの舞台である。説明板を読んでみよう。
源義経鞍掛の松
寿永四年(一一八五)二月平家追討の命をうけた九郎判官義経は、源氏の精鋭を率いて阿波の勝浦より大坂峠を越えて高松(高松町)の里に入り、屋島を望むこの地で人馬を整え、平家の陣を攻めたと伝えられています。
その時大将義経がこの松に鞍をかけ休息したというのでこの名が残っています。
高松市 高松観光協会
阿讃国境の大阪峠を越えた義経は電光石火、平家本陣の背後に迫っていた。この地でしばし休息したというが、周到に次なる作戦の準備もしていた。『平家物語』巻第十一「勝浦付大坂越」を読んでみよう。
明る十八日の寅刻に、讃岐国ひけ田と云ふ所に打下りて、人馬の息をぞ休めける。其より丹生屋(にふのや)、白鳥(しろとり)、打過/\、八島の城(じょう)へ寄給ふ。又近藤六親家(ちかいへ)を召て、「八島の館(たち)の様(やう)は、如何に。」と問ひ給へば、「知召(しろしめ)されねばこそ候へ、無下(むげ)に浅間(あさま)に候。潮の干て候時は、陸(くが)と島との間は、馬の腹もつかり候はず。」と申せば、「さらばやがて寄よや。」とて、高松の在所に火を懸(かけ)、八島の城へ寄せ給ふ。
寿永四年二月十八日午前四時、義経軍は讃岐の引田(最寄駅はJR引田駅)で休息し、その後、白鳥(最寄駅はJR讃岐白鳥駅)、丹生屋(最寄駅はJR丹生駅)を駆け抜け、屋島の旧城に迫った。阿波の武士で義経に味方する近藤親家(通称は近藤六)に尋ねた。
義経「屋島の平家本陣の周辺は、どったな地形なのが」
近藤六「ご存じありませんでしたか。とても浅うございます。潮が引いた時、屋島との間は浅瀬となり、馬の腹も浸からないくらいでございます」
義経「そんじゃ、すぐに攻めるべー」
高松(最寄駅は琴電古高松駅)の民家に火をかけ、屋島の平家陣営に押し寄せた。
無辜の民を巻添えにするとは、なんとご無体な…。こうして屋島の戦いは始まった。「扇の的」や「弓流し」のエピソードを残しながらも、戦いとしては平家の完敗に終わり、いよいよ最終章に近付いていく。
高松市屋島東町の屋島寺近くに「血の池」がある。
弘法大師が経文と宝珠を納めた場所としては「瑠璃宝の池」と呼ばれるが、説明版には次のように記されている。
源平合戦のとき檀の浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため、池の水が赤くなり血の池とも呼ばれるようになりました。
ここで言う「檀の浦(檀ノ浦)」は激戦地となった屋島東麓の地名であり、平家最後の地「壇ノ浦」とは異なる。屋島山上では数少ない源平の史跡である。
池の水が赤いとは、池底の土が赤茶けており濁った時にそう見える、というのが真相のようだ。とは言え、このような伝説が生じるのも、屋島であればこそ。血刀の凄惨さは、今やすっかり洗い流されている。
それより不思議なのは、この池は山上にあるにもかかわらず、涸れたことがないそうだ。水はどこから供給されているのだろうか。 平家の怨念とは関係なさそうだが、分からない。
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