『聖(セイント)☆おにいさん』という秀逸な宗教漫画がある。崇高なブッダやイエスは、これほどまでに身近な存在だったのか、と妙な安心感を覚える。悟った姿をしておられるが、聖なるお方も所詮は人間。喜怒哀楽をさまざまに顔や態度に出してきたことだろう。
歴史上「聖人」と呼ばれる人はたくさんいる。日蓮聖人や親鸞聖人は宗派の開祖で、この場合「しょうにん」と読む。「近江聖人」中江藤樹や「伊予聖人」近藤篤山は儒学者で、この場合は「せいじん」と読む。
キリスト教(カトリック)では、他の模範となるような篤い信仰のある信者を列聖、聖人(せいじん)とする制度がある。
岡山市北区芳賀に「市川喜佐衛門の墓」がある。十字が刻まれているのでキリスト者だと分かる。木陰があって爽やかな風の吹くこの場所は「聖ディエゴ喜斎記念公園」として整備されている。
「聖ディエゴ喜斎」から分かるように、喜佐衛門は聖人である。記録によれば、1627年に教皇ウルバヌス8世により「福者」、1862年にピウス9世により「聖人」に列せられた。
このブログでも、ユスト高山右近の列福を話題にしたことがあるし、安土セミナリヨで学んだ聖パウロ三木を紹介したことがある。聖ディエゴ喜斎とはどのような人なのか。説明板を読んでみよう。
市川喜左衛門(ヤコボ喜斎)
わが国におけるキリスト教の歴史は、桃山時代以降江戸時代を通じ苦難の道であった。豊臣秀吉はキリスト教が政策に合わないと考えこれを禁教とし弾圧を加えた。市川喜左衛門は、この弾圧による最初の殉教者の一人である。彼は一五三三年(天文二年)当地、岡山市芳賀の生れで早くからキリスト教に帰依し洗礼名をヤコボ(ディエゴ)といった。のち大阪の教会に入り伝道師となった。当時のきびしい弾圧にもひるまず布教活動を続けて捕らえられ一五九七年(慶長二年)他の二十五人とともに長崎で十字架につけられ処刑された。年六十四歳。一八六二年(文久二年)にローマ法王から聖人の位に列せられ日本二十六聖人の一人となった。なおこの墓は一九五八年(昭和三十三年)当地市川数太氏他によって建立された。
昭和五十五年十月十九日 聖ヤコボ・喜斎顕彰会
長崎で殉教した日本二十六聖人の一人で、最年長だった。洗礼名はディエゴともヤコボともいうが、どちらも十二使徒のひとりヤコブに由来している。聖人としては「喜斎」と呼ばれるが、本名は「喜佐衛門」か「喜左衛門」なのだろう。
地元で作成された一宮町教育委員会『一宮の歴史』(昭和46)には、次のようなエピソードが紹介されている。
芳賀という聖地
岡山のカトリック教会の司祭が新しく着任すると必ず芳賀へ来ています。
明治二十五、二十六年に岡山地方に大水害があって、カトリック教会がたいへんな損害を受けた時、キリスト教とは別に関係のない芳賀の青年たちが岡山に出て、何日もあとかたづけをしたといいます。
喜左衛門の精神は、彼の死後四百年に近い現在も静かに芳賀の地に燃え続けているのです。
このたびの西日本豪雨でも、多くの教会関係者が被災地に入り、ボランティアに従事したと聞く。共助の精神は社会生活の維持に欠かすことができない。信仰が高い精神性を支えているのだろう。
冒頭に紹介した漫画では、ブッダとイエスが共助している。宗教の違いなど、寛容の精神の前には小さなことだ。世界平和に宗教が果たす役割は大きいのではないか。そんな気がしてきた。
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