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11月3日「文化の日」を「明治の日」に改称する動きがあったが、あまり盛り上がっていないようだ。国民的関心が高まらない理由は、第一に祝日が増えるわけではないこと、第二に「明治維新」の負の側面に目が向くようになったからだろう。
明治維新は民主主義への第一歩となったが、その成立過程は武力による政権奪取であり、望まぬ戦いにより落命したものは数知れない。理不尽な戊辰戦争の結果、会津藩が若松城を失い、陸奥北部の斗南藩として再興を許されたものの、大変な苦労があったことは有名な話だ。
少しさかのぼって慶応二年(1866)、第二次幕長戦争のことである。石州浜田藩は朝敵である長州藩と戦った結果、浜田城を失って美作にあった飛地領に逃げることとなってしまった。長州藩士大村益次郎が名をあげた四境戦争石州口の戦いは、浜田藩士にとっては悲劇以外の何ものでもなかった。
津山市桑下に市指定の史跡「西御殿跡」がある。
ここは石州浜田藩終焉の地である。藩に降りかかった災禍については、説明板が丁寧で分かりやすい。かなり長文になるが、書き写しておこう。
第二次幕長戦争に際して、石見国(島根県)浜田藩(松平右近将監家 石高六万一千石)は幕府軍の先鋒部隊の一つとして石州口の守備についたが、石州口の戦いにおいては、村田蔵六(のちの大村益次郎)に指揮された長州軍に敗北し、慶応二年(一八六六)七月、自ら浜田城に火を放って藩主以下士卒は杵築に、続いて松江(共に島根県)に退いた。幕長戦争は、朝廷からの勅命による兵事の停止というかたちで終結したが、その後も石見国の浜田藩領は長州に占領されたままであったので、浜田藩は藩を挙げて飛領地であった久米北条郡の十七ケ村(石高八千三百余石)に移動することとなった。
藩主松平武聰(たけあきら)は、慶応三年(一八六七)三月二十六日、里公文中村の大庄屋福山元太郎邸に入り、藩名を「鶴田(たずた)藩」と改めた。そして、士卒や家族はそれぞれ近在の民家に寄寓し、慣れない土地での生活を行うこととなった。これは、別の観点からみれば、作州移住後は六万一千石の大名が八千三百余石で生活するという、経済的にみても極めて苦しい立場となったのである。
その後、人心も落着きを見せ、鶴田藩の統治機構が次第に整うにつれ、移住後福山邸に起居していた藩主や家族についても新しい居所が検討されるに至った。当初候補地となったのは、久米北条郡下打穴村内の鬼山であったが、慶応四年六月以降鶴田藩領となっていた同郡桑下村内のこの地に建設されることとなった。
鶴田藩主の居館は、この西御殿の地に建築され、藩主がここに移ったのは年号も改まった明治四年(一八七一)の六月であった。しかしながら同月の版籍奉還、翌七月の十四日には廃藩置県の詔書が出され、松平武聰は藩知事の職を解かれて東京へ召されることとなった。
武聰の東京への出発は同年八月二十三日であり、藩主がここへ起居したのはわずか足掛け三ケ月の短期間であった。
(久米町指定重要文化財 昭和四十四年十月九日指定)
久米町教育委員会
石州浜田藩は城地を長州藩に占領され、作州の山村への移動を余儀なくされた。藩主松平武聰は当初、地元豪農宅に居候していたが、将来のことを考え居館を新築することとなった。完成した西御殿に武聰が入ったのは明治四年六月二十八日であったが、翌七月には廃藩置県が断行され、八月二十三日に武聰は東京に出発した。
政治的にも社会的にも急激な変化に藩士たちは戸惑い不安になったに違いない。地元豪農は財政的に藩政府に協力し、藩士の生活も支援した。まさか藩が廃されるとは、誰であれ思いもよらぬことだったろう。
藩が消滅してずいぶん時を経た明治二十二年に、旧鶴田藩士が西御殿跡に「殉難碑」を建てた。表には岡山県知事の千坂高雅が揮毫した「殉難碑」の文字、裏には殉職した藩士の名が刻まれている。
明治維新から150年。「維新」という言葉は、今も革新的なイメージを保ち続けている。だが明治維新は、誰にとっても慶事だったわけではない。
やはり11月3日は、全国民にとって異論のない「自由と平和を愛し,文化をすすめる日」として祝うのがふさわしい。
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