今、オランダ語を話せる日本人はどれほどいるのだろうか。おそらく江戸時代のほうが、蘭語レベルは高かったのではないか。本日は、江戸後期から幕末にかけて活躍した秀才蘭方医を紹介する。彼はオランダ語を完全に習得していたようだ。
真庭市旦土(だんど)の國玉神社境内に「石井宗謙誕生の地」と刻まれた碑が建てられている。揮毫は岡山県知事長野士郎である。
写真奥に見える表示では「シーボルトの弟子」と紹介されている。どのような人物なのか。石碑の裏には、次のように刻まれている。
石井氏は高田城主三浦家譜代の重臣であったが天正四年三浦氏滅亡により江与味村に遁れその後旦土村に移り蔵元庄屋を勤めた当地方の名門である。
先生は寛政八年石井佐次郎左衛門信正の子としてこの地に生まれる。シーボルトの門人となり蘭医学を学び医業を継ぎ天保三年勝山藩医となる。特に天然痘の研究で名声を博し、晩年幕命により蕃書調所に仕えて外国文書の翻訳にしたがい、かくて文久元年五月二十三日六十二才で江戸に於て病没した。
シーボルトの日本研究に助力した優秀な門人であったようだ。ここには記されていないが、宗謙にはもっと知られた話がある。岡山市を訪ねよう。
岡山市北区表町二丁目に「オランダ通り」がある。
オランダ風の街並みがコンセプトだが、オランダ人が見たら「どこが?」と思うかもしれない。それでもレンガ敷きの車道や明るい外壁に、私たちはオランダをイメージして異国情緒を楽しんでいる。
長崎じゃあるまいし、なぜ岡山がオランダ?という疑問はごく自然だ。それに応えて通りに面し、次のような説明板が掲げられている。
オランダおいね医術修業の地
この地は幕末(天保末-嘉永五年)のころ蘭方医石井宗謙の居宅のあった処ですが、同時に日本で最初の西洋医学の産科女医として有名になったオランダおいねが、若き日勉学に励んだ由緒ある地でもあります。
明治十七年おいね自筆の履歴書によると
弘化二年(一八四五)二月ヨリ嘉永四年(一八五一)九月マデ都合六年八ヶ月備前岡山下之町医師石井宗謙ニ從ヒ産科医術修業仕事候
とあり、この地での修業は明確です。
おいね(本名楠本イネ)は文政六年来日したオランダの医師フォン・シーボルトと日本妻楠本タキとの間に同十年(一八二七)長崎で出生。岡山に来たのは父シーボルトの高弟石井宗謙がこの地で産科医を開業していたので医術修業のため来岡したもので、この時十九歳のおいねは背が高く容姿端麗な異形の美人だったと伝えられています。
後年のおいねは宗謙との間に一女を生み、東京に出て宮内省に仕えるなど名声をあげ、明治三十六年八月二十六日、七十七歳で没しました。
シーボルトとお滝さんとの間の子「オランダおいね」がこの地で修業していたのだ。だから、岡山がオランダという国に直接関係があるわけではない。
岡山とオランダおいねとを結んだのは、石井宗謙であった。生誕地の石碑に勝山藩医、蕃書調所への出仕について記されているが、その間に宗謙は岡山城下の下之町で開業していた。そこへおいねは修業に来たのである。
そんなゆかりからオランダ通りでは、街並みを飾るフラッグに「おいね」の名を記して顕彰している。彼女は宗謙との間に一女をもうけたが、それは彼女の意に反したものだったと考えられている。
おいねは岡山にどのようなイメージを抱いていたか、医術修業ができたことに感謝したのか、宗謙との関係から思い出したくもない地になったのか。おいねの思いは知る由もないが、「オランダおいね」が岡山で医術修業したことを、地元では誇りに思っている。
その背景には、良くも悪くも石井宗謙の存在があった。医学史としては宗謙が西洋医学に基づく産科の発展に貢献したことは間違いないし、シーボルトの日本研究の一助となったのも確かだ。生まれ故郷の人々は、シーボルト門下の秀才蘭方医を誇りに思っている。
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