我が国で最強のミステリースポットとして知られるのが、平将門の首塚である。京にさらされた首が関東へ帰ろうと空を飛び、落ちた場所に首塚が築かれたという。
将門首塚には立派な石塔婆が建てられ、多くの人がお参りをしている。本日紹介するのは同じ首塚でも、こんもりとした土山の塚である。いかにも何か埋まっている雰囲気だが…。
岡山市北区首部(こうべ)の白山神社に「温羅(うら)の首塚」がある。正式には白山神社の末社で「米神」といい、ご祭神は「鬼神首塚」である。
温羅は桃太郎のモデル吉備津彦命が退治した鬼の名前で、吉備の冠者(かじゃ)ともいう。鬼の首はこの地にさらされたが、何年たってもうなり声を発し続け、犬に喰わせて髑髏にしても止まなかった。
そこで首は、吉備津神社の御釜殿の下、地中深くに埋められたが、なおもうなり続けた。命が困っていると夢に温羅が現れ「オレの嫁さんに釜を炊かせろ。吉凶を音で知らせてやるぜ」と言い、そのとおりにすると、うなり声はしなくなったという。
この温羅、そんなに悪い奴じゃない、というのが、白山神社の言い伝えである。説明板を読んでみよう。
米神には、「命から鬼と恐れられた温羅は、実は心優しい青年で、朝鮮半島からたたら製鉄技術を持ち込み、農民に農耕の道具、鍬や鋤などを広め、農業の発展に力の限りを尽くしたのです。やがて、吉備の国は豊かな米どころとなり、温羅は農民から大変感謝され、功績をたたえられ、米の神として祀られました。」とのいわれがあります。
歴史学の成果を踏まえた解釈である。渡来人の果たした役割が、象徴的に温羅に託されている。吉備の冠者である温羅が吉備津彦命に倒されるというストーリーは、大和王権の勢力拡大を意味しているように思える。
史実として温羅は存在しないし、伝説上でも温羅の首は吉備津神社に移されているので、この首塚には「首」が埋まっていないことになる。
果たしてそうか。天保期の『東備郡村誌』(巻之七)津高郡馬屋郷「首部村」では、次のように説明されている。
古塚あり。昔よりこれを首塚と云ふ。村の名もこれに依れるか。伝説詳ならざれども、予按に、永寿の乱に木曽義仲篠ヶ迫の城を攻落し、備中迄妹尾太郎兼康を追討にせしことあり。但し首は備中板倉鷺の森に懸ると源平盛衰記にみえたれば、其首塚にあらず。又近くは天年中毛利宇喜多の戦、一の宮辛川の辺にありたれども、首は三野郡津島村に葬る云へり。然れば建武三年五月足利左馬頭直義備中福山の城を責落し、辛川の宿迄大江田式部大輔を追討にし、首を斬こと千三百五十三級、辛川に一宿して実検ありしこと太平記にみえたれば、其首塚にやあらんか。又一説に吉備津彦命逆徒を征伐せられし首塚なりとも、或は又日本武尊穴戸の悪神を征伐せられし首塚なりとも云ふ。何れか其可をしらず。
ここでは5つの説が紹介され、温羅伝説は本命とは見なされていないようだ。キビツヒコではなくヤマトタケルのバージョンもある。この2説が架空なのは明らかで、残り3説は史実である。
①寿永二年(1183)、木曽義仲軍は福隆寺縄手の戦いで、平家方の妹尾兼康と激しく戦った。
②天正七年(1579)、毛利軍と宇喜多軍が辛川合戦で激突した。
③建武三年(1336)、足利直義は福山合戦で大井田氏経を破り、逃げる氏経を追討した。
このうち『東備郡村誌』は、③における首塚と推定している。この地で幾度も合戦が行われているのは、その地形による。
中世の山陽道には「笹迫(ささのせまり)」という隘路があった。①で妹尾兼康が敗れた「笹が瀬古戦場」である。②や③でも戦場に倒れた者は多かったろう。「温羅の首塚」も古戦場の戦没者にまつわる塚と考えるのが自然だ。
とはいえ、『東備郡村誌』で「逆徒」と表現された温羅は、今や「うらっち」というマスコットキャラクターにも進化している。そして岡山の夏の風物詩となった「うらじゃ」では、「温羅化粧」の若者が熱く踊った。首塚もキャラも踊りもすべて、温羅に対するリスペクトを表しているのだろう。
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