今夏は、豪雨に台風、地震と災害が相次いだ。倉敷市真備町の水害では復旧作業のボランティアに参加させてもらったが、聞くのと見るのと、映像とリアルとでは、印象が大きく異なるのを実感した。
その家は中二階の屋根瓦5枚目くらいまで浸水した痕跡があったが、はじめ、そんな水がどこから来たのか不思議に感じた。よく見ると、向こうに緑の堤防があり、小田川に近いことが分かる。だが、あのような近代的な堤防が決壊するとは「まさか」だったと、私も思う。
真備町には明治26年の水害の供養塔があり、広島市安芸区にも明治40年の土砂災害を語り伝える石碑が建立されていた。だが、当時から百年以上経たこの時代である。「まさか」、そんな思いになるのは分かる気がする。
徳島県海部郡美波町木岐(きき)の木岐公民館前に「南海地震津浪最高潮位標示石柱」がある。昭和21年の昭和南海地震の記録である。
ここはV字型の湾の奥に位置し、押し寄せる波を大きくする地形である。過去の経験を教訓とするため、石碑の裏には「忘れまじ おそるべし大自然のこの暴威を」と刻まれている。石碑は昭和57年に建てられた。
今後、南海トラフ巨大地震が発生する確率は、30年以内に70~80%だという。それは明日かもしれないし、何年も何年も先のことかもしれない。分からないのだから、備えるに越したことはない。
美波町西の地(にしのじ)の旧由岐保育所(地域交流支援センター)前にも「南海地震津浪最高潮位標示石柱」がある。
ここも典型的なV字湾で、それだけに良港として発展してきた。特に南側の箆野(ぬの)島は、天然の防波堤となっている。
美波町西由岐の西由岐公民館前にも「南海地震津浪最高潮位標示石柱」がある。
背後の小社は「龍王さん」という。水の神様だ。
美波町東由岐の天神社下にも「南海地震津浪最高潮位標示石柱」がある。
このあたりは、地震発生後約12分で津波の影響が出始め、水位は最大12.3mに達すると予想されている。天神社は標高18.8mの高台に位置するので、いざという時に逃げ込めるよう避難階段が設けられている。
強固な防潮堤を築いて津波に対峙するのではなく、とにかく高い場所へ逃げるのだ。
美波町木岐の真福寺前の電柱にも「昭和南海地震津波」の標示がある。
日常生活において津波を意識し、「まさか」を防ぐよう工夫している。美波町は防災意識の高い町として有名だ。
歴史上繰り返し発生している南海地震。その前回にあたる昭和南海地震は、どのような様子だったのだろうか。『由岐町史』下巻<図説・通史編>(平成6年)には、次のように記されている。
戦後まだ日も浅い昭和二十一(一九四六)年十二月二十一日午前四時十九分、突如として大地震が発生した。この地震は紀伊半島南方沖合の海底を震源とするもので、最大震度六の激震が海部郡沿岸の由岐町(当時三岐田町)をはじめ日和佐、牟岐、浅川の各町村におよび、このあと約十分後津浪の来襲によって大きな被害をうけたのである。
この津浪を町内各地域の住民はいち早く予知し、夜明け前の薄暗い中を神社や寺の境内または裏山などの高所へ大勢駆け上って避難した。その直後、もの凄い津浪がごうごうと押し寄せてきた。東由岐、西の地、西由岐、木岐地区の海岸に近い住家は殆んど軒下まで浸水し、ばりばりと不気味な音を立てて家々の家具家財類が流失または損傷して大混乱状態となった。港の大小の漁船は堤防や道路の真ん中へ押し上げられ、街中はどこもガラタタで埋まるなどの惨状となった。この大きな災害をうけて各戸ともちょうど寒気に向っての時期で、家屋その他の復旧作業に相当長期にわたって苦労し不自由な生活がつづいたのである。
東日本大震災の惨状を映像で見て記憶しているから、一読しただけでイメージをつかむことができる。映像のみならず、津波到達地点の標示や犠牲者の供養塔など、災害の記憶は防災意識の向上に重要な役割を果たしている。
災害は忘れた頃にやってくる。忘れぬようにと古人が残した災害記念碑を訪ねて、私は由岐を歩いた。今回を含め三回に分けて南海地震の記憶を伝える石碑をレポートする。
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