内憂外患とか踏んだり蹴ったりとか、大変なことが相次ぐことがある。昭和南海地震もそうだった。昭和18年の鳥取地震、19年の東南海地震、20年の三河地震、そして21年の南海地震と続いた。戦中戦後の大混乱の時代に、である。
安政南海地震も似たような状況であった。嘉永七年(1854)に伊賀上野地震、東海地震、南海地震と立て続けに発生し、翌安政二年(1855)の江戸地震が甚大な被害をもたらす。米国のペリーに続いて、ロシアからプチャーチン提督がやってきて条約締結を迫り、混迷を極める幕末を迎えた時期にあたる。
徳島県海部郡美波町木岐に「王子神社石燈籠」がある。
ふつうの石燈籠に思えるが、災害記念碑でもある。まずは旧由岐町教育委員会の説明板を読んでみよう。
由岐町文化財 準指定・考古資料
安政地震津波石灯籠
昭和58年4月28日 準指定
安政地震は嘉永7年11月5日午後4時ごろ発生マグネチュード8.4数丈の大津波となり房総より九州に至る沿岸をおそう。木岐浦では203戸のうち190戸流出11人死亡と伝えられている。
この碑裏面にも波の高さ4丈余、大地震の節は油断なきようあらかた記しおく旨刻まれている。
「準指定」というのは珍しいが、現在の美波町の文化財保護条例にもその規定がある。安政南海地震は、上記のとおり嘉永七年(1854)に発生したのだが、その年のうちに「安政」に改元されたため、そのように呼ばれている。
石燈籠の竿の左側面には、次のように刻まれている。
嘉永七寅十一月五日清天七ツ時大地震、半時之内大汐三度込入軒家流失凡四丈余上リ、當宮流失明卯八月遷宮、大地震之節油断無之事荒方記置
嘉永7年11月5日快晴の午後4時ごろ大地震が発生し、1時間ほどの間に津波が三度押し寄せ、家が流された。波の高さは12m以上にもなった。王子神社も流され翌年に移転した。大地震の節は油断なきようあらかた記しおく。
まさに油断大敵、忘れた頃にやって来るのが津波である。かつて起きたことは、今後も起きる。災害は過去に学べ、ということだ。
美波町東由岐の東由岐公民館に「東由岐浦修堤碑」がある。大正二年(1913)の建立である。
本来は前年の台風で損壊した堤防を修復した記念碑だが、安政南海地震でも堤防が破損したので、碑文は地震の状況から説き起こされている。読んでみよう。
嘉永七寅季十一月四日朝辰刻地震潮立浪怒翌五日朝巳刻地大震、人皆避難於山頂時海嘯襲来、而到於長圓寺下、堤防破潰、流失家屋百數十戸、村内僅十餘戸存耳、焉死傷夥極悲惨、領主蜂須賀候命吏改修
嘉永7年11月4日朝8時ごろ地震があり、海が荒れた。翌5日朝10時ごろ地震があり、人はみな山の高台に避難した。津波が襲来し長円寺の下まで到達した。堤防が破壊され村内の家屋百数十戸流出し、残ったのはわずか十余戸のみ。おびただしい死傷者が出て、極めて悲惨な状況だった。領主の蜂須賀公の命により堤防が改修された。
東海地震と南海地震が立て続けに発生したことが記録されている。(ただし南海地震は午後の発生である。)津波に襲われてから五十数年。その惨状はまだ語り伝えられていただろう。そしてこの修堤碑は、建立から百年以上の時を経て、今や貴重な災害記念碑となっている。
美波町志和岐の志和岐公民館前に「震災碑」がある。左側の石柱である。文久二年の建立である。
志和岐は木岐や由岐のような入江ではないが、例外なく津波の被害を受けたようだ。美波町教育委員会の説明板を読んでみよう。
美波町文化財<考古資料>
安政地震津波碑
昭和58年4月 準指定
地震は(1860)11月5日発生マグニチュード8.4数丈におよぶ、大津波となり房総より九州に至る海岸を襲う橋本亀吉翁の記録には「志和岐では津波の高さ2丈余り家屋6件流出」とある、この碑は当時の模様を刻した物で「大地震の節は必ず押し来るべし、その期におよぶも油断これなきよう、この碑に刻み永く子孫に伝えおく」記されている。
ここでも油断大敵が強調されている。書物にではなく石碑にメッセージを残したのは、多くの人に伝えたいという思いからだろう。碑文を読んでみよう。
去ル嘉永七寅年霜月初四日朝五ツ時大地震、不時ニ汐高満有、此時浦中家財を寺或ハ高き人家へ持運ひ、翌五日七ツ時亦々大地震、忽ち津浪押来り、舩網納屋不残沖中へ流れ失、浦人漸寺又ハ山抔へ遁登り、夫々無難ニ一命助りし事全氏神諸仏の御加護也、依之又々幾後年ニ及大地震之節汐高満有之時ハ必定津なみ押来ルへし、其期ニ及少も為無油断荒々此石ニ彫記長く子孫へ知せ置度而己
去る嘉永7年11月4日朝8時ごろ大地震があり、思いがけず高潮になった。この時、村じゅうの家財を寺や高台の人家に持ち運んだ。翌5日午後4時ごろまた大地震があった。たちまち津波が押し寄せ、船や網納屋は残らず沖合に流され失われた。村人はやっとのことで寺または山などに駆け上ってそれぞれ無事だった。命が助かったのは、まったくもって神様仏様のご加護である。このことから、後年また大地震で潮が高くなってきたら、それは津波が押し寄せたのだと思わねばならない。もしそうなっても油断なく対処できるよう、この石に刻んで長く子孫に伝えておきたいだけである。
ここでも東海地震と南海地震が記録されている。二つの地震には密接な関連があり、今後の南海トラフ巨大地震でも、東海、東南海、南海の三つの震源域で連続的な地震の発生が想定されている。
この「震災碑」は、記録の正確さや具体性、メッセージの分かりやすさから、特筆すべき災害記念碑と言えよう。「まさか」とは思うが、「まさか」を想定の範囲内としておくことが、防災の基本姿勢である。安政地震を生き延びた人々からの伝言を、今こそしっかりと受けとめたい。
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