鳥羽・伏見の戦いでは、新政府軍が旧幕府軍を破り、明治維新の幕開けを告げた。だが、同時期に海上で旧幕府軍が勝利したことは、あまり知られていない。近代的な装備の新政府軍、旧態依然の旧幕府軍。そんな単純な理解ではいけない。薩長も幕府も蒸気機関を備えた近代的な軍艦を所有していたのだ。我が国初の近代的海戦に敗れた薩摩兵は…。『西郷どん』で語られないエピソードを紹介しよう。
徳島県海部郡美波町西由岐に「薩摩藩輸送船翔鳳丸乗組員上陸之地」と刻まれた石碑がある。
事は西郷隆盛の江戸撹乱工作に始まる。西郷の命を受けた相楽総三(さがらそうぞう)らが浪士たちを組織し、江戸とその周辺で騒ぎを起こして幕府側を挑発した。相楽は偽官軍の汚名を着せられ処刑されたことで知られるが、それはまだ後のことである。
相次ぐテロ行為に業を煮やした佐幕派の庄内藩は、慶応三年12月25日、薩摩藩邸焼き討ちを決行した。邸内の浪士たちはたまらず逃げ出し、一部の者は品川沖の薩摩船「翔鳳丸」に乗り込むことができた。相楽総三もその一人である。
ところが、脱出する翔鳳丸を幕府艦「回天丸」が見つけ、これに攻撃を加える。翔鳳丸は被弾したものの、なんとか江戸湾を抜け出し西へと向かい、慶応四年1月2日、兵庫港に逃げ込む。すでに開港していた兵庫港には外国艦船が停泊しているため、攻撃される可能性は低かった。翔鳳丸に乗船していた相楽はここで上陸した。
薩摩へ帰る者を乗せた翔鳳丸は、僚船の軍艦「春日丸」に先導されて紀淡海峡へ向かった。春日丸には若き日の東郷平八郎が乗船していた。これを追ったのが幕府艦で最も有名な開陽丸である。艦長は榎本武揚であった。1月4日のことである。
四国最東端、伊島の沖合で戦闘が行われた。開陽丸は25発、春日丸は18発の砲撃をしたという。洋式軍監による初の近代戦「阿波沖海戦」である。翔鳳丸はどうなったのか。実は春日丸による曳航がうまくいかず、自力航行を余儀なくされていた。この続きは、旧由岐町教育委員会による説明板で読んでみよう。
翔鳳丸の入港・上陸・自爆
由岐沖合いでの砲撃戦から脱出した、薩摩藩輸送船翔鳳丸(四六一トン)は、機関故障のまま四日午後やっとの思いで由岐港に入港、乗組員四十数名は、この岸壁付近から上陸した。
武士姿あり、軍服姿あり、服装もまちまち。負傷者多数。村中の人びと騒然、右往左往。船側と地元首脳との交渉の後全員海陸に分かれ日和佐御陣屋を経て土佐へ。
翔鳳丸は、舟組が出発前に仕掛けたであろう爆薬によって、夜半大音響とともに爆発。ぬの島の島影で永久にその姿を没した。
慶応四年(一八六八年)正月四日のことである。
翔鳳丸は箆野(ぬの)島の北のあたりで座礁して止まった。写真では大砲と島景の間である。ちなみに、この大砲が翔鳳丸を迎え撃ったわけではなく、阿波沖海戦で幕府艦開陽丸が使用したものを原寸復元したものだ。史跡のシンボルとして置かれているのだろう。
上陸した薩摩側の人々は、徳島藩の出先機関、日和佐御陣屋を経由して土佐に送られた。翔鳳丸は乗組員の手で火が掛けられ、やがて爆発した。火薬庫に引火したらしい。ちなみに春日丸は翔鳳丸と離れた後、薩摩に無事帰藩している。
翌5日、開陽丸が由岐沖に現れ、残党狩りを行った。翔鳳丸の乗組員は全員土佐へ送られていたから、開陽丸は得るところなく大坂へと引き揚げていった。6日、鳥羽・伏見の戦いは旧幕府軍の総崩れとなり終結した。7日、徳川慶喜は大坂城を退去し、開陽丸に乗船する。8日、開陽丸は江戸に向けて出航する。
こうして戊辰戦争は、陸上で新政府軍が勝利し、海上で旧幕府軍が勝利して幕を開けたのである。海上で勝利とはいえ、開陽丸はすぐに江戸に向かうので、戦局の大勢に影響を与えることはなかった。
戊辰戦争勃発から150年。明治維新は戦いによって成し遂げられた。戦いを語り伝える小さな史跡を二つ紹介することで、戦陣に死し、職域に殉じ、非命に倒れた人々に、衷心から哀悼の意を表したい。
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