「御朱印」をいただくより、酒をいただく「御酒飲」がいい、という罰当たりなダジャレがある。その気持ちはよく分かるが、ここは少々我慢していただき、今年が西国三十三所草創1300年に当たることから、「西国三十三所」ゆかりの天皇を紹介するので、お付き合いいただきたい。
府中市本山町に「人皇六十五代花山法皇御尊像」がある。弘法大師か西行の像に思えるが、もと天皇で出家の身である法皇陛下だ。このような山中におでましとは。
今年1300年の西国三十三所は、養老二年(718)に、閻魔大王からのお告げを受けた徳道上人が開いた巡礼路である。しかし、草創当時は巡礼を盛んにすることができなかった。
270年ほどの歳月を経て、若くして出家の身となった花山法皇は、那智で参籠し修行に励んでいた。そこへ熊野権現が現れ「西国三十三所を再興せよ」という。法皇は、徳道上人が摂津中山寺に納めた宝印を探し出し、播磨書写山の性空上人の勧めにより、河内石川寺の仏眼上人を先達として33か所の観音霊場を巡礼された。
以後、西国三十三所巡礼は盛んとなり、花山法皇は中興の祖として崇められているのである。では、三十三所から離れた備後府中に御尊像があるのはなぜか。
四国八十八箇所もそうだが、西国三十三所にはミニ霊場が各地にある。ここ「明目西国三十三所」もその一つで、昭和天皇の即位を記念して設けられた。山のふもとにある栄明寺を1番とし、北へ進んで山道を登ったところにある青目寺を33番とする。法皇の御尊像が置かれているのは、その巡礼路である。
花山法皇はどのような思いで出家されたのか。古文の授業で習った方もおられようが、『大鏡』の関係部分をもう一度読んでみよう。寛和二年(986)のことである。
花山寺におはしましつきて、御ぐしおろさせ給ひて後にぞ、粟田殿は、
「まかりいでて、大臣(おとど)にもかはらぬ姿今一度見え、かくと案内(あない)も申して、必ず参り侍らむ。」
と申し給ひければ、
「われをばはかるなりけり」
とてこそ泣かせ給ひけれ。あはれに悲しきことなりな。
日頃よく御弟子にて候はむと契りて、すかし申し給ひけむが恐ろしさよ。
花山天皇が花山寺(今の元慶寺)にお着きになり、剃髪なさった後のことです。近侍していた藤原道兼がこう言いました。
「ちょっと戻って、父に出家前の姿を見せ、帝と一緒に出家する事情を話してまいります。必ず戻ってきますから…」
ここで天皇は気付きました。
(なんだかおかしいと思っていたが、やはり)「私をだましたのだな」
天皇はさめざめとお泣きになりました。まことに気の毒なことでございます。
道兼は日頃から「(帝が出家されたら)お弟子としてお仕えいたしましょう」と約束していました。にもかかわらずだますとは、なんと恐ろしいことでありましょう。
そりゃ、つらいわな。いちばん信頼していた部下に裏切られるんだから。世を捨てて旅に出ようという気になる。そう思って、山中で出会った御尊像を見ると、心の平安を求め観音さまとの結縁を願う姿だと分かる。
法皇が開いた巡礼路を、法皇の気持ちに寄り添いながら、今も多くの人が巡っている。御酒飲もいいが、ここはやはり御朱印をいただいて、縁を結ぶ幸せをかみしめるのがよいだろう。
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