かっぱっぱ ルンパッパ~のかっぱ黄桜のCMソングを憶えておられよう。いけるけるけるケロップとか、少々意味不明な歌詞とメロディにはどこか中毒性があり、頭の中でヘビーローテーションを始めてしまう。子どもの頃の話である。
河童はテレビの中だけでなく全国各地に棲息しており、マスコットキャラとして親しまれているケースも多い。うちの近くにも「ごんご」という河童「ごんちゃん」がいて、ごんごバスが走っている。本日は、そんな河童の伝説発祥の地があるというので訪ねてみた。
武雄市橘町大字永島に「河童伝説発祥地」の看板が建てられている。
看板に描かれている河童のキャラクターは「たっぱくん」である。「たちばなのかっぱ」ということだろう。ここ橘町には、どのような伝説が語られてきたのだろうか。
六角川の潮見橋あたりを「カッパ淵」というそうだ。川幅が広く草も茂っているので、得体の知れぬ何かが棲息していてもおかしくない。
カッパ淵から川沿いに下流へ進むと「かっぱの誓文石」がある。
このあたりには河童の石造がたくさんある。誓文とは、神にかけて誓った言葉だ。河童が何を誓ったというのだろう。説明板を読んでみよう。
史話 かっぱの誓文石(せいもんせき)
潮見城第一代の城主 橘公業が、嘉禎三年(一二三七)長嶋荘惣地頭として、橘に下向されました。その折、橘氏の眷属(家臣)であったかっぱも、公業に従って潮見川に移り住みました。かっぱは元気でしたのでつい子ども達にいたずらをしました。
人々の苦しみを知った公業は、潮見神社の神主さんに、その説得を頼みました。神主さんは、この誓文石のところにかっぱを集め「かっぱ達よ、この石に花が咲いたらお前達に人間を一人くれてやろう。それまでは決して人に害を与えてはならない」と誓文を取りかわし約束しました。
かっぱ達は、それから約束を守って人に害を与えなかったと言われています。
毛利大宮司家には、かっぱよけの呪文として次の歌が残っています。
「兵主部よ 約束せしは 忘るなよ 川立つおのこ 跡はすがはら」
(潮見神社由緒記)より
平成二十二年 橘町まちづくり推進協議会
悪さばかりする河童に「決して人に害を与えてはならない」と約束させたのである。この地方で兵主部(ひょうすべ)と呼ばれる河童、むかしからここに棲んでいたわけでなく、橘公業(たちばなのきみなり)に従って移住してきた。
鎌倉幕府の御家人、橘公業は伊予国宇和郡の地頭であったが、当時の実力者、西園寺公経(さいおんじきんつね)にその地位を追われ、肥前に下向することとなったのである。あたかも菅原道真が藤原氏によって九州へ左遷されたように。
河童は子どもを水中に引き込むなど危険度の高いやからである。その難を避けるには「兵主部よ…」の呪文を唱えればよい。その意味は「河童たちよ、約束を忘れるなよ。川に入っているオレは菅原氏の末裔だぞ」という意味らしい。菅原氏といいつつ、暗に橘氏を示唆しているのかもしれない。
ところで、河童は橘氏の家臣だったという。橘氏、恐るべし。いったいなぜ、河童を家来にすることができたのだろうか。民俗学の大家、柳田國男は『桃太郎の誕生』「海神少童」に次のように記している。
北肥戦志の載する所に依れば、橘諸兄の孫兵部大輔島田丸、春日神宮造営の命を拝した時、内匠頭某といふ者九十九の人形を作り、匠道の秘密を以て加持するに、忽ちかの人形に火たより風寄りて童の形に化し、或時は水底に入り或時は山上に到り、神力を播(ほどこ)し精力を励まし召仕はれける間、思ひの外大営の功早く成就す。よつてかの人形を川中に捨てけるに、動くこと向前の如く、人馬家畜を侵して甚だ世の禍となる。此事遙かに叡聞あつて、其時の奉行人なれば、兵部大輔島田丸、急ぎかの化人の禍を鎮め申すべしと詔を下さるゝ。乃ち其趣を河中水辺に触れまはりしかば、其後は河伯の禍なかりけりとある。是よりしてかの河伯を兵主部(ヘウスべ)と名く。主は兵部といふ心なるべし。それより兵主部を橘氏の眷属とは申す也とも謂つて居る。是は誠に取止めも無い空想のやうであるが、同じ由来談はミヅチの古名と共に、既に年久しくアイヌの間にも知られて居り、内地の方でも河太郎はもとは人形であつた故に、左右の腕が一本の棒の様に抜け通つて居るのだと謂ふ処は少なくない。だから北肥戦誌が肥前潮見の城主渋江家の歴史として、斯ういふ俗説を叙べたのも作り事では無くて、少なくとも此書編修の当時の、肥前の渋江一族にはもうこの伝説が附いて居たのである。渋江といふ苗字は肥後にも筑後にもあるが、此家と河童との関係は深いものであつた。近世九州の各地で水難除けの護符を出し、若くは河童の崇りを攘ふ祈祷をしたといふ家は、尋ねて見ると多くは渋江氏であつた。前に掲げた橘島田丸の河伯統御なども、その一つの説明であつたかと思はれる。
橘公業の先祖に、兵部大輔の橘島田麻呂(たちばなのしまだまろ)という人物がいた。島田麻呂が春日大社の造営を命じられた時、その工事責任者が99体の人形を作り、命を吹き込んだ。この人形の活躍で社殿は予定より早く完工した。そこで、不要になった人形を川の中に捨てたところ、今度は水中で動き出し人や家畜を襲うようになった。「河童」の誕生である。島田麻呂は天皇から河童退治を命じられ、これを鎮めたという。兵部大輔の島田麻呂にちなんで、河童は「兵主部」と呼ばれるようになった。
この橘氏の後裔が肥前潮見城主の渋江氏であり、江戸時代になって渋江氏の後裔が河童除けのお守りを授けていた。この家業の裏付けとして島田麻呂の伝説を流布したのである。河童を家来に従えていた潮見城主のお膝元にある「カッパ淵」と「かっぱの誓文石」は、「河童伝説発祥地」を物語る証拠というわけだ。
それにしても河童のご先祖が人形だったとは驚いた。人形に命を吹き込み作業させることで、労働生産性を向上させたのである。まさに古代のAIに他ならない。ところが、用済みとなった人形をぞんざいに扱うと、人に害を及ぼす河童に変身した。現代のAIもうまくコントロールせねば、未確認妖怪KAPPAになってしまうのではなかろうか。河童伝説が未来に警鐘を鳴らしている。
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