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岩倉使節団5人の人物写真は、どの歴史教科書にも掲載されている。そのキャプションには「右から大久保利通、伊藤博文、岩倉具視、一人おいて木戸孝允」とある。名前が挙げられた4人は有名な元勲で、維新史を語るに欠かすことができない。
では残る一人は誰だ?「せっかくだから、一緒に写ろうや」と入れてもらったお友達なのか? そんな軽いノリで撮ってはいない。これは正使の岩倉と副使4人がそろっての記念写真である。1872年1月23日にサンフランシスコで撮影された。
武雄市武雄町大字永島に「正三位勲一等山口尚芳誕生地」の碑がある。尚芳は「なおよし」とも「ひさよし」とも、また「ますか」とも読む。地元では「ますか」が一般的だ。岩倉使節団の特命全権副使の一人で、公家や薩長に並ぶ肥前代表である。
明治維新のVIPと肩を並べる山口尚芳とは、どのような人物なのか。石碑には次のように刻まれている。
氏は明治の元勲少くして蘭学を長崎に学び壮にして専ら国事に奔走し維新の建設に尽す明治元年外国事務御用係を経て大蔵大丞民務大丞外務少輔となり同四年特命全権副使として欧米を巡視し同八年議官となり同十三年元老院幹事同十四年会計検査院長を歴て十八年元老院議官となる実に国家の柱石明治の元勲たり同二十七年六月十二日貴族院議員として薨去す区民は碑を氏の誕土の地に樹て其偉勲を永久に伝へんとす
昭和五年五月一日 花島区
嫡男俊太郎氏英国に人となり亦令名あり友愛人に接し交友天下に普し区民其遺風を慕ひ茲に附記す
山口尚芳もまた元勲の一人であった。若き日に長崎で蘭学を修めた秀才で、英語もできたことから明治四年(1871)に外務少輔(外務卿、外務大輔に次ぐNo.3)となり、岩倉使節団の副使に抜擢された。
大久保、木戸、伊藤らに比べて印象が地味なのは、政治家ではなく官僚の道を歩んだからだろう。特に明治十四年に就任した会計検査院長は初代であり、現在も院長応接室には、山口の肖像画が掲げられているという。
碑文には記されていないが、尚芳は明治七年の佐賀の乱で重要な役割を果たした。武雄は初め佐賀からの出兵要請を拒否したが、強要されてついに出兵してしまう。尚芳は政府側であったが、武雄のために謝罪文を起草し、謝罪に積極的でない旧領主鍋島茂昌に諫言するなど、武雄の赦免に奔走した。
国のため地元のために貢献した山口尚芳は、明治二十七年に亡くなった。この年、日英通商航海条約がロンドンで調印され、治外法権が撤廃された。岩倉使節団の目的の一つがここに達成されたのである。
さかのぼって1872年8月17日、ロンドンに到着した尚芳はこの大都会を目の当たりにして、大隈重信に次のように書き送っていた。「海に火輪を 山口尚芳の米欧回覧」展図録より
嗚呼後れたり、遺憾なり、全国挙て昼夜を積み奮起すと雖も、一世二世企て及之術無し、表皮之開化論等は断然打捨て、根基を強し、人知の進歩を計るが肝要
尚芳は英国と日本の格差に愕然としている。その後の日本は追いつき追い越せと努力を重ね、先進国の仲間入りを果たす。いまイギリスはEU離脱交渉で大変な苦境に直面している。尚芳が驚愕し日本人が憧憬した英国は、いったいどこへ向かうのであろうか。