明治初期の文明開化は、「汽笛一声新橋を」と歌われた鉄道や1円切手の前島密が始めた郵便、そして1年が13か月になることのない太陽暦など、今日の私たちの生活の原点を見ることができる。
郵便創設は明治4年、鉄道開通は明治5年、太陽暦導入は明治6年のことであった。その明治6年、レジャーの始まりとなる重要な法令が出された。
岐阜県養老郡養老町養老公園に「養老公園碑」がある。左側の石碑である。
まず右側の石碑から説明しよう。昭和3年建碑の「岡本喜十郎翁記念碑」である。今も賑わう老舗旅館「千歳楼」を18世紀に始めた人で、石碑には「養老開設者」と刻まれている。養老観光の先駆者である。
江戸時代後期には湯治だとかお参りだとか、名所旧跡への旅がさかんになった。明治の御代となって「公共」の概念が導入されると、社会的地位に関係なく誰もがそれぞれに楽しむことのできる空間が求められるようになった。そして明治6年1月15日に、太政官布告第十六号が出されるのである。
三府ヲ始、人民輻輳ノ地ニシテ古来ノ勝区名人ノ旧跡等、是迄群集遊観ノ場所(東京ニ於テハ金龍山浅草寺東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於テハ八坂社清水ノ境内嵐山ノ類、総テ社寺境内除地或ハ公有地ノ類)従前高外除地ニ属セル分ハ永ク万人偕楽ノ地トシ、公園ト可被相定二付、府県ニ於テ右地所ヲ択ヒ、其景況巨細取調、図面相添ヘ大蔵省ヘ可伺出事
東京、大阪、京都をはじめとする大都市における古くからの名所旧跡など、これまで人々が物見遊山に集まった場所(例えば東京では浅草寺や寛永寺の境内、京都では八坂神社や清水寺の境内や嵐山など、一般的に社寺の免税地あるいは公有地)で、かつ以前から免税とされてきた土地は、今後誰もが自由に楽しむことのできる場所「公園」とすることとしたので、各府県はこのような土地を選び、その景観や利用状況を調べ、図面を添えて大蔵省へ伺いを出すようにせよ。
こうして我が国に「公園」が誕生したが、その第一号は上野公園、浅草公園、芝公園、深川公園、そして飛鳥山公園の5か所であった。この後、地方でも公園の開設が相次ぎ、養老公園は明治13年10月17日に開かれた。
「養老公園碑」の冒頭は、次のように記されている。銘文は依田学海。演劇改良の指導者で、躍動感にあふれる漢文を作成したことでも知られる。
皇帝御極之十三年海内寧謐朝野段富百廃悉挙於是岐阜県多芸郡耆紳相議請置公園於官蓋承皇上与民偕楽之意也是歳十月養老公園成耆神等大開宴席会県官名士豪族落之
皇帝御極の十三年、海内は寧謐、朝野は段富にして、百廃悉く挙ぐ。是に於て岐阜県多芸郡の耆紳相議し、公園を置かんことを官に請ふ。蓋し皇上民と偕に楽しむの意を承くる也。是の歳十月養老公園成る。耆神等大に宴席を開き、県官名士豪族を会して之を落す。
天皇即位から13年、国内は落ち着いて豊かになり、諸問題はことごとく解決した。こうした折、岐阜県多芸郡の名士が協議して「公園」を開設してほしいと政府に願い出た。おそらく民衆と楽しみを共にしたいという陛下のお考えを受けてのことだろう。この年の10月、養老公園が開設された。名士らは大宴会を催し、県の役人や地元有力者が一堂に会してこれを祝った。
この文に続いて、養老の地における行幸や開発の経緯が語られ、次のように締めくくられている。
鳴呼郡県皆置公園莫不以勝景著焉而其留一千有餘年之聖蹟者此園為然余安得不銘而伝之
嗚呼、郡県皆公園を置き、勝景を以て著れざるもの莫し。而るに其の一千有余年の聖蹟を留むる者は、此の園のみ然りと為す。余安んぞ銘して之を伝へざるを得ん。
ああ、郡県はどこも公園を開設し、すぐれた景色で知られていないものはない。ところが、一千年以上前の聖蹟があるのは、この園だけである。私は銘文によりこれを伝えずにどうしていられようか。
かくして養老公園は誕生した。初めは偕楽社という民間団体が管理していたが、明治半ばに郡営、大正期に県営となった。多くの文人が景勝をモチーフとして作品を残し、旅人は思い出を残すために写真を撮った。ピークの昭和55年に観光客は122.3万人に達したという。
平成になって「養老天命反転地」がオープンした。名瀑に名水、歴史を語る古碑と老舗旅館、1300年前の聖蹟に現代アート。自然と人文が一体となって養老の魅力を形成している。人それぞれ興味に応じて楽しむことができるパブリックなスペースである。ここはまさしく「万人偕楽ノ地」なのだ。
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