むかし品川駅近くに住んでいた頃、京急の赤い電車にはずいぶんお世話になった。飛行機で羽田空港に着いてから京急に乗った。川崎大師に10年に一度の「赤札」を求めてお参りしたことがあるが、その時も京急に乗った。本日は、京急の創業者のお話をしよう。
岐阜県養老郡養老町鷲巣に「立川勇次郎君之碑」がある。今の大垣市に生まれた人である。
知らない人が多いが、立川勇次郎は我が国における「電気鉄道の父」である。馬車鉄道が主流だった都市交通の近代化を志し、明治22年、東京において電気鉄道敷設の免許を出願したものの却下される。
夢をかなえたのは明治32年1月21日のこと。立川を代表とする大師電気鉄道が、六郷橋と大師を結んだのである。京都、名古屋に次いで日本で三番目の電車だった。その後、大師電機鉄道は京浜電気鉄道と改められ、東京と横浜が電車で結ばれることとなった。戦時下の私鉄統合を経て、現在の京浜急行電鉄となったのは昭和23年である。
立川は東京ばかりに目を向けていたのではない。この碑は養老駅前にあるが、この養老鉄道も源流をたどれば、明治44年に立川が設立した会社である。養老駅の開業は大正2年7月31日のことであった。
驚くべきことに立川はすでに、今日の大量高速輸送時代の到来を予見していた。碑文の一節を引用することとしよう。
更に東京大阪間に高速度電気鉄道を企画し交通上に新機軸を出さんとし、明治四十年以来廿年一日の如く其の達成を期して止まず、亦以て君の志の遠大なるを知るべし。
この計画は東京大阪間を6時間で結び、途中の駅は「神奈川県松田」「静岡」「名古屋」「亀山」の4カ所のみという壮大なものだった。申請は却下されてしまうものの、その構想は戦時中の弾丸列車計画や東海道新幹線、さらにリニア中央新幹線に受け継がれていく。
今、三重県亀山市はリニア駅の誘致に官民挙げて取り組んでいる。亀山は江戸時代、我が国第一の幹線である東海道が通過し、五十三次のうち46番目の亀山宿が栄えていた。その栄光の歴史を高速鉄道によって取り戻そうというのだ。
夢のリニア駅。その源流は、明治末に立川勇次郎が構想した高速鉄道駅にあった。勇次郎の夢は、明治、大正、昭和、平成、そして次の新時代へと受け継がれていくのである。
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