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肥後の熊はくまモンだが、肥前の熊は龍造寺隆信のことである。肥前を代表する戦国大名で、名前からして強そうだ。その龍造寺氏のライバルだったのが後藤氏で、平安時代以来の武雄領主という名門である。本日は後藤氏の居城を紹介することとしよう。
武雄市武雄町大字武雄に「塚崎城跡」の石碑がある。目の前の県立武雄高校のあたりに城があったらしい。
遺構はほとんどないが、少し離れたところにきれいな石積みがある。
御船山の北端に「塚崎城石門」がある。
説明板には次のように記されている。
塚崎城は、今の武雄高校一帯にあった後藤氏の居城である。豊臣秀吉の天下統一により、塚崎城は廃城となり、当時の面影を残すのはこの石門だけである。
龍造寺隆信のライバルだったのが、第19代武雄領主後藤貴明(たかあきら)だ。けっこういい勝負をしていたものの、後藤氏は天正五年(1577)に龍造寺氏の軍門に下り、隆信の子家信を貴明の養子として迎えることとなった。
第20代武雄領主となった後藤家信は、天正十二年(1584)の沖田畷の戦いで実父龍造寺隆信がまさかの戦死を遂げると、同十四年に塚崎城を出て要害の住吉城(武雄市山内町大字宮野)へ退いた。その後は秀吉の朝鮮出兵で活躍したが病により帰国、嫡子の茂綱と交代した。
第21代武雄領主の茂綱は、朝鮮撤退後の慶長四年(1599)に本拠地を塚崎城に戻した。天下分け目の関ヶ原に際しては、龍造寺家臣団最有力の鍋島氏とともに西軍から東軍へと寝返り、事なきを得た。
慶長十二年(1607)に龍造寺宗家が絶え鍋島氏が藩主となると、後藤茂綱は有力家臣となった。塚崎城は一国一城令により城砦としての役割を終え、武雄領主の居館となる。後藤茂綱は寛永十一年(1634)、藩主から「鍋島」の姓を賜り、以後、武雄鍋島家として藩政を支えていくこととなる。
後藤氏の「武雄領主」という地位は武雄鍋島家にも受け継がれ、最後の鍋島茂昌は第29代に数えられる。第28代の茂義が西洋砲術の研究に努め、佐賀藩が雄藩となる基礎を築いたことは特筆に値しよう。
肥前の熊、龍造寺隆信の系譜は絶えたように見えて、「後藤」「鍋島」と名乗りを変えながら佐賀藩を支えていた。くまモンはけっこう人気があるようだが、「さがんもん」もなかなかあなどれませんぞ。
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