「ふる石や 瓦飛び込む 水のうち」
水野忠邦は天保の改革の失敗により老中を罷免された際に、民衆から石や瓦を屋敷に投げ込まれた。
「水の出て もとの田沼に なりにける」
水野忠成(ただあきら)は老中として大御所家斉のもと、田沼時代に劣らない金権腐敗政治をおこなった。
水野家は譜代だから老中を何人も輩出しているが、あまり評判はよくないようだ。紹介した二人の老中の系譜をさかのぼると、次のようになる。
水野忠邦:徳川家康の母方の祖父に当たる水野忠政の子、忠守の末裔。忠守は家康の母、於大の方の異母兄。
水野忠成:徳川家康の母方の祖父に当たる水野忠政の子、忠重の末裔。忠重は家康の母、於大の方の同母弟。
忠守と忠重とでは忠守が年長だが、忠重が水野宗家を継ぐこととなった。家康との血縁の近さが有利だったのかもしれない。本日は福山における水野宗家を調べることとしよう。
福山市若松町の水野家墓所に「水野和泉守忠重墓」がある。福山藩初代の水野勝成の父である。
忠重は福山の地とはまったく関係がない。没年は慶長五年(1600)、関ヶ原の直前であった。死因は殺害。事件は池鯉鮒(ちりゅう)宿で起きた。『徳川実紀』「東照宮御実紀」巻四には、次のように記されている。
然るに池鯉鮒の宿にて、大坂の家人加賀井弥八郎といへるもの、争論して水野和泉守忠重を討。弥八郎また堀尾吉晴がためにうたれしが、吉晴も深手負しよし聞ゆ。(是は大谷吉隆がすゝめにより、三成ひそかに弥八郎に命じ、秀頼より存問の使と称し江戸へ下し、君御対面の席にて刺奉れとの事にて、弥八郎を江戸へ下しける。然るに君いかで斯る詐謀に陥り給ふべき。御対面なければ弥八郎むなしく帰るとて、道にて堀尾をあざむき忠重に会し、酒宴の席にて忠重を害し、堀尾をも討んとして其身伐れしなり。
池鯉鮒宿(今の知立市)で大坂方の加賀井重望(かがのいしげもち)が言い争いで水野忠重を殺害した。重望は堀尾吉晴によって討たれたが、吉晴も深手を負ったという。これは大谷吉継の策略で石田三成が重望に、秀頼様からの御機嫌伺いの使いとして江戸へ赴き、家康公に対面したところで刺殺するように命じたものだ。家康公がどうしてこんな策謀に引っかかろうか。対面さえかなわず重望はむなしく帰ることとなったが、その途中で吉晴をだまして忠重を酒宴の席で殺害し、さらに吉晴も殺そうとしたが返り討ちとなったのである。
江戸幕府の公式記録に記載されているのだから、大谷吉継黒幕説を疑う必要はないように思われるが、加賀井と水野の単なる口論が原因ではという見方が一般的だ。
同墓所に「福山城初代 水野日向守勝成墓」がある。忠重の子勝成については「福をもたらした郷土開発の父」で詳しく紹介しているので、ここでは割愛する。「追陞(ついしょう)従三位」とあるが、大正八年に従三位を贈られたことを意味している。
福山城二代の水野勝俊の墓はここになく、「島原の乱、原城突入一番乗り」で詳しく紹介しているので割愛する。
同墓所に「福山城三代 水野日向守勝貞墓」がある。勝貞も父勝俊とともに原城突入一番乗りを果たしている。勝貞の墓の右手に殉死した安田孫之進の墓がある。まだ若い勝貞が亡くなったのは寛文二年(1662)、幕府が殉死を禁じたのはその翌年のことであった。
同墓所に「福山城四代 水野美作守勝種墓」がある。勝種は勝貞の子で幼くして藩主となり、長じては備後国分寺を再建するなど民政に力を尽くした。元禄十年(1697)の津山藩主森家断絶により、勝種は城請取を命じられたが、直後に倒れそのまま亡くなってしまった。
跡は満一歳にもならない遺児の勝岑(かつみね)が継いだが、翌元禄十一年に夭逝してしまう。水野宗家もまた断絶の憂目に逢うこととなった。
これではあまりにも気の毒と、幕府はお家再興を認めた。初代勝成の子に旗本となった勝忠がいた。その勝忠の子に勝直がおり、勝直の子に勝長がいた。この勝長が水野宗家を相続したのである。その子孫は下総結城藩主として幕末に至る。
ただし「藩主、自らの城を攻める!」で紹介したように、幕末の結城藩は佐幕派と恭順派が激しく対立する。藩主水野勝知が佐幕を最後まで貫いたのは、家康公との血の絆を誇る譜代としての気概によるものではなかろうか。
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