我が国の国際化において最大の功労者は、阿部正弘だろう。彼が周到に準備して日米和親条約を結んだからこそ、対外的に平和が保たれたのである。火種はむしろ国内にあった。正弘の死後、攘夷派の言動は次第にエスカレートし、テロの嵐が吹き荒れる。
薩長はその急先鋒であったが、やがて欧米に対しては国際協調路線に転換する。明治新政府も同様で、結局は阿部ちゃんが望んでいた未来を歩いたのであった。
福山市丸之内1丁目に「阿部正弘之像」がある。阿部正弘公銅像建立期成同盟会が昭和53年4月に建てた。
福山に阿部正弘像はもう一つあり、「ひょうたんなまず総理大臣」で紹介した。公の事績はその記事で書いたが、銅像そばの銘板にも同様なことが記されている。このうち外交関係の部分を読んでみよう。
太平洋の波高く、幕末内外多難の時に際し、筆頭老中として国政を総覧し、近世幕藩体制における旧弊を断って、日米和親の条約を結び、開国への道を求め近代国家への扉を叩く。
阿部正弘のすべてが分かる書物に渡辺修二郎『阿部正弘事蹟 日本開国起原史』がある。その下巻に、次のような逸話が紹介されている。後に日本近代統計の祖と称される杉亨二(すぎこうじ)が正弘公に進講した時のことである。
時に勢州は独逸「ゴツタ」版『ハンド・アトラス』を取りて机上に置き、余に講義を命ず。余乃ち図を指して説明す。勢州大に歓喜して微笑し『日本は如何にも小なり、予は世界の形勢につきて稍々発明する所あり』と言ひ、…
勢州とは伊勢守の阿部ちゃんである。世界地図を見て「日本は小さいのう。オレは世界の情勢がだんだん分かってきたぞ」と喜んでいる。全体像を把握することは、政治家の決断に欠かすことができない。阿部ちゃんの視野は広かった。
しかし何事にも反対派はいるもので、「アベ政治を許さない」とて次のような落首が詠まれたという。『阿部正弘事蹟』より
いにしへの 蒙古の時と あべこべで 波かぜたてぬ 伊勢の神風
元寇に際して鎌倉幕府は敢然と立ち向かい、伊勢神宮は神風を起こして撃退した。ところが、その時とはあべこべに伊勢守阿部ちゃんは腰抜けだから、波風立てずやり過ごそうとしている。
ネット上では「日韓断交」などと威勢のいい声が聞こえてくるが、帝国主義の時代じゃあるまいし、対話せずして解決するわけがなかろう。政治家は結果に責任を負うのだから、問題をこじらせぬよう、あらゆる選択肢から最適解を見出さねばならない。
世界地図を見ながら考える阿部ちゃんだからこそ、アメリカと堂々と交渉し、平和裡に近代国家への扉を開いたのだった。そのアメリカと仲良しの現代のアベちゃんは、レーダー照射や徴用工の問題で泥沼になりつつある隣国との関係をどのように修復しようとしているのだろうか。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。