入浴中に暗殺された人物といえば、西洋史ならフランス革命のマラー、日本史なら源頼家か源義朝だろう。心も身体も無防備にして疲れを癒しているというのに、そこを狙うとは卑怯千万。本日は、平治の乱後、再起を図ろうと落ち延び、無念の最期を遂げた義朝ゆかりの地を訪ねることとしよう。
岐阜県養老郡養老町飯ノ木(はんのき)に「源義朝遺跡(源氏橋)」がある。町指定の史跡である。
大正四年三月に架けられた石橋だが、崩落の危険があるのか渡れなくなっていた。橋の下に流れるのは津屋川である。この橋が源義朝とどのように関わるというのか。『養老郡志』(大正14、復刻版昭和45)には、次のように記述されている。
広幡村大字飯木地内字源氏橋に在り。平治元年源義朝平氏と戦ひ敗績して青墓に来り、此処より柴船に乗り尾張に遁る。これより此橋を源氏橋と称す。美濃明細記にも「源氏橋は多芸郡飯木邑にあり。義朝平治の乱都を落ち、青墓長者が元に来り夫より青墓のひがし、小金川とて榎戸邑の東を流るゝ川有り。(今小キ川旧跡アリ)此川を小舟にて下り飯木邑にて越玉ふ橋を源氏橋といふ」とあり。
平治の乱があったのは京都市内。六波羅の合戦で敗れた義朝は近江から東山道へ入り、美濃青墓宿にたどりついた。ここには青墓長者こと大炊(おおい)がおり、その一族は源為義、義朝父子と深い関係があった。
このあと義朝はどうするのか。『平治物語』巻第二「義朝野間下向并忠致心替事」では次のように描かれている。引用文は水戸徳川家の研究成果である『参考平治物語』を参照した。諸本のうち京師本、杉原本、鎌倉本の記述とのことだ。
頭殿(かうのとの)、鎌田を召て宣(のたまひ)けるは、「海道は宿々固(かため)て侍(はべる)と云なれば叶ふまじ。是より尾張内海(うつみ)へ著(つか)ばやと思ふは如何」と宣へば、鎌田「鷲栖(わしのす)玄光は大炊(おほひ)には弟也。古山法師にて大剛の者にて候。憑(たの)ませ給へ」と申せば、金王を御使にて「是より海上を歴(へ)て、尾張内海へ著ばやと思ふは如何。憑まれよ」と宣ければ、玄光「是ならでは争(いかで)か左馬頭殿の仰(おほせ)をば蒙(かうむる)べき」とて、小船一艘尋出(たづねいだ)し、左馬頭殿、平賀四郎、鎌田兵衛、金王丸四人の人々をのせ、上に柴木を積(つみ)、玄光一人棹をさし、株瀬川(くひせがは)を下しける。
折戸(おりと)に関すへて、下る船をば捜す程に、「此舟をも寄(よせ)よ」といへ共、玄光聞(きか)ぬ様にて下しければ、「悪(にく)い法師」とて矢を番(つが)ひ放(はなち)ければ、船端(ふなばた)に射立たり。玄光、最(いと)騒がぬ気色にて、「是は何事候ぞ」とて指寄たり。「左馬頭殿落られけるが、行方知ず成ぬと云。かゝる時は小船柴の中もあやしければ、捜して見んと云に、など和僧、聞ぬ様にて下るぞ」といへば、「さらば能(よく)は宣はでとて、御覧ぜよ」とて指寄たり。
物共二三人乗て、柴木を取除ける程に、人々臥給へる所近く取のけたり。玄光「今は叶はじ。人々に自害せさ、我も自害せん」と思成て、「左馬頭殿落給はんには、五十余騎三十余騎にはよも劣り給はじ。此法師程の者を憑(たのみ)て、小船柴木の中に積籠(つみこめ)られて、御辺達の中に捜出され、憂目を見んとはよも思給はじ。縦(たとひ)おはすとも、今は自害などをこそし給はんずれ。能(よく)見よ」と云ければ、頭殿、此由を聞給ひ、鎌田が耳に御口当て、「是は自害せよと云詞(ことば )也。いざ自害せん」と宣へば、鎌田「暫(しばらく)候」とぞ申しければ、関屋の中より兵一人出て、「げにも左馬頭殿の落ぬるは如何無勢也とも、二三十騎にはよも劣らじ。此法師程の者を憑(たのみ)て、此船に乗て下らんとはよも思はじ。疾々(とくとく)通れ」とて、柴木をも本の如く取入、「早(はや)下れ」といへ共、急(いそぎ)も下らず。玄光申けるは、「法師の職には似ぬ事にて候へども、柴木を下し沽却(こきゃく)して、妻子を育む者にて候間、一月に五六度も上下する者にて候。此後は事故(ことのゆえ)なく通し給へ」と、興(きょう)有様(あるやう)に申なして、「又もや捜さんずらめ」と、船をば早く指下す。
源義朝は、もっとも信頼する家人鎌田正清(かまたまさきよ)を呼び寄せ、
「東海道は宿場が平家方に押さえられているので通れないだろう。これから尾張内海荘に向かおうと思うのだがどうか。」
と言った。鎌田は
「鷲巣玄光という者は大炊の弟で、古参の山法師で力量があります。助けを頼んでみてはいかがでしょう。」
と答えると、家人の渋谷金王丸(こんのうまる)を使いとして
「ここから海へ出て、尾張内海荘へ行こうと思うのだが、連れて行ってもらえるだろうか。」
と頼むと、玄光は
「このこと以外にどうして義朝さまのご命令を受けるでしょうか。」
と言って小舟一艘を用意し、源義朝、平賀義信、鎌田正清、渋谷金王丸の4人を乗せ、その上に柴木を積んで、玄光一人で棹を操って杭瀬川を下った。
平家方は折戸に関所を設けて川を下る舟を捜索していた。玄光に「舟をこちらへ寄せろ」と命じたが、聞こえぬふりをして舟を進めようとする。「くそ坊主め」と言って矢を放つと、船べりに刺さった。玄光は少しも騒がず
「これは、どういうことでございますか」
と舟を停めた。
「源義朝が逃亡し行方不明だという。このような場合は小さな舟であれ積荷の柴の中まで捜索するのが当然だが、お前はどうして聞かぬふりをするのか。」
と言うと、
「ならば、そうおっしゃらずにお捜しください。」
と舟を寄せた。
平家方が2,3人舟に乗り込み、義朝主従が隠れている近くまで柴木を取り除いてしまった。玄光は
「もうダメだ。みなさんには自害していただき、私も自害しよう」
と思うようになり、
「義朝さまが逃亡するなら、どんなに少ないとはいえ50騎や30騎は従えているはずだ。このような坊主を頼みにして、小さな舟の柴木の中に押し込められ、お前らに追われるようなひどい目に遭うとは思えない。たとえいらしたとしても、今は自害していることだろう。よく見るがいい。」
と言うと、義朝はこれを聞き鎌田に耳打ちして
「これは自害せよという意味だな。もはやこれまで。」
と言い、鎌田が
「しばらくお待ちを」
と止めると、関所から兵が一人現れ
「たしかに義朝が落ち延びるなら2、30騎以上は従えているはずだ。こんな坊主を頼りにして、こんな舟で下っていくとはとても思えない。さっさと通るがよい。」
と、柴木をもとに戻して「早く行け」と言うのだが、玄光は急ごうともしない。彼は
「坊主には似つかわしくありませんが、私は柴木を売って妻子を養っており、ひと月に五六度も行き来している者でございます。今後は問題なくお通しください。」
とあえて丁寧に言うと、「また捜索するだろう」と急いで舟を進めたのであった。
ここ源氏橋は、義朝公を助けた鷲巣玄光の本拠地である。彼の商業ネットワーク、つまり柴木を知多半島に売るルートを利用して、尾張内海荘へ逃げたのであった。知多半島の窯業において、柴木は欠かせない燃料だ。
玄光の機転で難を逃れた義朝公であったが、信頼していた家臣の裏切りにより、知多半島であえなく命を落とすこととなる。「御湯召れ候へ」と勧められ湯殿に入ってのことであった。人間の運命は、かくも厳しいものなのか。
改めて源氏橋を観察しよう。
側面に「笹竜胆(ささりんどう)」のレリーフがある。源氏の代表的な家紋として知られており、鎌倉市では源頼朝ゆかりということで「ササリンドウ」を市章としている。しかし、頼朝は白旗を掲げたが竜胆紋を使っていた証拠はないと、市ホームページは正直に認めている。
したがって頼朝の父義朝も「笹竜胆」紋は使っておらず、ましてや逃げ隠れするのに紋を掲げるわけがない。それでも地元の方が源氏橋に笹竜胆が刻んだのは、鷲巣玄光が進退窮まった武家の棟梁を助けようとした史実を誇りとして伝えたかったからだろう。
今年は源実朝没後八百年。祖父の義朝、孫の頼家、実朝と、その死はいずれも尋常ではなかった。権謀術数が渦巻く時代は遠い過去となったように思えるが、今も落とし穴はそこかしこにあるのかもしれない。
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