磯田道史氏は「歴史をつくる歴史家」として、頼山陽、徳富蘇峰、司馬遼太郎の三名を挙げている。司馬は明治国家の気概を讃美し、蘇峰は尊王論を時代の原動力と説き、山陽は南朝への思慕を詠った。
確かにそうかもしれない。史実があるから歴史を語るのではなく、歴史を語るから史実となっていくのだろう。本日は、頼山陽ゆかりの地を訪ね、代表作『日本外史』の意義を考えたい。
広島市中区袋町の頼山陽史跡資料館に「頼山陽居室」があり、国の史跡に指定されている。
建物は原爆で焼失し、昭和三十三年に復元された。広島県教育委員会の説明板には、次のように記されている。
頼山陽は朱子学者頼春水の長男として安永9年(1780)大阪に生まれましたが、青年期を、この地にあった屋敷で過ごしました。21歳の時、脱藩し直ちに京都から連れ戻された後は、この居室に5年間閉じ込められ、当時ベストセラーになりました『日本外史』の草稿はこの居室で書いたといわれております。
頼山陽がここで過ごし、ここで『日本外史』を執筆したことに史跡としての価値があるのだ。
門前の石柱には「頼山陽先生日本外史著述宅趾」と刻まれている。徳富蘇峰の書で、昭和三年の昭和天皇御大典を祈念して建てられた。資料館ではちょうど「頼山陽と酒 一杯一杯復一杯」という秀逸な展覧会が開催されており、その看板が見える。
頼山陽が愛飲したのは、今も有名な「剣菱」である。展覧会ではなんと、「剣菱」の振舞酒という豪華イベントもあったが、日程が合わず呑みそびれてしまった。心残りなので、剣菱を詠んだ山陽先生の詩を鑑賞しよう。「戯作摂州歌(戯れに摂州の歌を作る)」である。
兵可用、酒可飲 兵は用ゆべし、酒は飲むべし
海内何州当此品 海内(かいだい)何れの州か此の品(ひん)に当たらん
屠販豪侠堕地異 屠販(とはん)の豪侠(がうけふ)地に堕ちて異なり
腹貯五州水淰淰 腹に貯(たくは)う五州の水淰淰(ねんねん)
阿吉不肯捐与人 阿吉は肯(あ)へて人に捐(す)て与へず
阿藤営宅城如錦 阿藤は宅(たく)を営み城は錦の如し
龍顛虎倒両逝波 龍顛(りゅうてん)虎倒(ことう)両逝(りょうせい)の波
戦血満地化嘉禾 戦血地に満ちて嘉禾(かくわ)と化す
伊丹剣菱美如何 伊丹剣菱の美は如何(いかん)
各酹一杯能飲麼 各(おのおの)一杯を酹(そそ)ぐ、能く飲むやいなや
いくさをしても酒を呑んでも強い。天下でいずれの国が摂州と同格だというのか。いくさ場で見せる男気は生まれた時から違い、五か国の水が滔々と集まる淀川があるのだから。信長公はこの地を手放そうとはしなかったし、秀吉公はこの地に住み、その城は豪華絢爛であった。しかしながら、両雄が消え去ってずいぶんとなり、血が流れた戦場には今穀物が実っている。伊丹の剣菱の美味さはどうだろう。おのおの方に一杯酌んで進ぜるが、お口に合いますかな。
スケールの壮大さが頼山陽の真骨頂である。裏を返せば、やや誇張気味であることは否めない。しかし、そのことが人の心を動かし、史実だと認識されていくのである。本能寺に向かう明智光秀を、山陽先生は次のように活写している。『日本外史』巻之十四徳川氏前記織田氏下より
宣言奉命西援秀吉。夜度大江山。至老坂。右折則走備中道也。光秀乃左馬首而馳。士卒驚異。既渉桂川。光秀乃挙鞭東指。颺言曰。吾敵在本能寺矣。衆始知其反也。
宣言すらく、「命を奉じて西して秀吉を援(すく)ふ」と。夜、大江山を度(わた)り、老坂(おいのさか)に至る。右折すれば則ち備中に走(おもむ)くの道なり。光秀乃ち馬首を左にして馳す。士卒驚き異(あや)しむ。既に桂川を渉る。光秀乃ち鞭を挙げて東を指(ゆびさ)し、颺言(やうげん)して曰く、「吾が敵は本能寺に在り」と。衆始めて其反を知る。
明智光秀は「信長公の命により、西に向かって秀吉の援護をする」と触れた。その夜、大江山を越えて老坂までやって来た。右に曲がれば秀吉が戦う備中への道だが、光秀は馬の首を左に向け進んだ。兵は何事かと驚いた。桂川を渡り終えたところで、光秀は鞭で東を指し、声高に言った。
「わが敵は本能寺にあり!」
皆の者はその時初めて、謀反であることを知った。
今では「敵は本能寺にあり」がなければ本能寺の変が始まらないかのような、重みあるセリフである。光秀が確かにそう言ったという記録はないが、確かにそう言ったと私たちに思わせる。まさに山陽先生の面目躍如たる場面描写だ。
いったい史実とは何だろうか。人の認識を介さない純粋な史実は存在するのだろうか。あるのかもしれないが、人が認識しなければ史実とならないのである。人は歴史を納得のいくストーリーに仕立てる。かくして光秀は「敵は本能寺にあり」と叫ぶようになった。その場所は広島だったのかもしれない。
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