政治がらみのノーベル平和賞はうさんくさいが、人道支援に関することであれば納得だ。なんと、その平和賞を3度も受賞している国際機関がある。赤十字国際委員会だ。受賞は1917年、44年、63年である。世界大戦のたびに受賞しているのは、それだけ活躍の場があったということだろう。実は、我が国も大変お世話になった、という話をしよう。
広島市中区袋町に「マルセル・ジュノー広場」がある。ジュノー博士の肖像レリーフが設置されている。2004年の博士生誕100年を記念したものだ。石をよく見るとクサビの跡が残っている。広島城外堀の石垣の一部を再利用したものらしい。
ジュノー博士はスイスの医師。広島とどのような関わりがあるのだろうか。説明板には、次のように記されている。
1945年赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日していたジュノー博士は、広島の原爆被災の惨状を聞くや、医師として放射能の恐ろしさを知りながら、15トンの医薬品とともに9月8日来広し、廃墟と化した市街地に入って、各所で自らも被爆市民の治療にあたった。
博士によって届けられた医薬品の中には、当時の日本では手に入らないものもあり、数多くの被爆者が救われた。
当時、救護所の一つであり、1日100人あまりの診療が行われていた袋町国民学校(現在の当校)においても、博士は被爆者の治療にあたられた。
ジュノー博士がシベリア、満州を経て来日したのは昭和20年8月9日。連合国軍捕虜の帰国を支援するためであった。広島の惨状を知るや、GHQの許可を得て医薬品を手配して現地に向かい、9月8日から4日間滞在した。
ここ袋町国民学校では、鉄筋コンクリート三階建の校舎が倒壊を免れたので救護所となっていた。その校舎の一部が今も残されている。
ジュノー広場の隣にある「袋町小学校平和資料館」は被爆建物として保存されている。ここには家族や知人を探す人が救護所にやって来る人に見てもらおうと書いた伝言板がある。伝言板といっても、それは煤けた壁にチョークで書いたものだった。混乱の中で誰もが安否情報を求めていたのである。
赤十字国際委員会が駐日代表部を置いたのは、太平洋戦争の真っただ中の昭和17年(1942)のことである。日本国内の捕虜収容所を訪問し、捕虜を精神的に支えたようだ。ジュノー博士も来日直前、シンガポール陥落時の降将パーシバル中将と満州の捕虜収容所で面会している。
赤十字国際委員会の人道支援には、ほんとうに頭の下がる思いがする。その活躍には心から感謝しているが、活躍の場はないほうがよい。平和の実現には各国首脳のリーダーシップが欠かせない。ノーベル平和賞を狙っているという米国大統領と彼を推薦したという我が国の首相は手を携えて、国際紛争の防止に向け世界をリードしていくことだろう。
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