子どもの頃、広島のおじちゃんという人がいて、夏休みにカープの試合を見に市民球場へ連れて行ってくれた。山本浩二や衣笠が出ていたはずだが、さっぱり覚えていない。原爆ドームはすぐ近くだから、その時に行ったのかもしれない。ただ、原爆資料館を訪れたのは、被爆再現人形を強烈に記憶しているので確かだ。そんなわけで、広島には「昔は原爆、今カープ」という単純なイメージしかなかった。
イメージが貧困では、広島に申し訳ない。美しい景観と深い歴史を求めて、今回は広島城を訪ねたのでレポートする。
広いお堀に堂々たる天守、色鮮やかな木々に端正な石垣。42万6千石の大藩にふさわしい構えだ。
広島市中区基町に国指定史跡「広島城跡」がある。石碑があると広島城の正面のように見えるが、ここは裏門があった場所である。
毛利輝元、福島正則、そして浅野氏十二代の居城であった。雅称を「鯉城(りじょう)」といい、カープ(英語で鯉)の由来となっている。西区に「己斐(こい)」という地名があるが、城のあたりは己斐浦(こいのうら)と呼ばれていたので、同音の「鯉」の字が使われたともいう。
広島城跡の本丸上段に「広島大本営跡」がある。昭和10年に建てられた石柱には「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」と刻まれているが、「史蹟」は塗りつぶされている。かつての史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく史蹟であり、明治天皇「聖蹟」であった。
ここには、もと本丸御殿があったが明治7年に焼失し、同10年に広島鎮台司令部として木造2階建ての洋館が建設された。21年には第五師団司令部が置かれ、27年に日清戦争が始まると9月13日に大本営がこの場所に置かれた。そして15日、明治天皇が広島入りした。さらに10月には第7回帝国議会が広島で開催されるなど、事実上の首都機能が存在していた。
天皇は翌年4月27日までの約7か月間、広島に滞在した。この時のことを回想して、天皇は明治40年に次のような歌を詠んだ。
たむろしてよなよな見てし広島の月はその夜にかはらざるらむ
「たむろする」には今、コンビニ前にヤンキーが集まるようなイメージがあるが、漢字では「屯する」と書き、本来は兵士が駐屯することを意味する。清国と戦火を交えたあの頃、私は大本営のあった広島に滞在し戦況報告を受けていた。不安と決意が入り混じった気持ちで見上げた月。今宵の月も同じようだな。
原子爆弾は広島城天守も大本営もすべて破壊したが、今は平和そのもののような風景を楽しむことができる。昭和の印象が強烈な広島だったが、江戸や明治の広島もなかなかの魅力がありそうだ。なにせ天皇がたむろした都市なのだから。
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