我が国初の普通選挙では、投票率が80%あったという。ところが今やどうだ。平成29年の総選挙では53%まで下落している。教育が普及し情報化が進展すれば、政治への関心も高まるのかと思ったら、逆にどんどん無関心になっている。民主主義のパラドックスである。加藤高明は怒っているだろう。
名古屋市昭和区鶴舞一丁目の鶴舞公園に「伯爵加藤高明君」と刻まれた銘板のある石柱が立っている。記念碑に見えるが、銅像の台座である。
加藤高明が首相在任中の大正14年に成立させた普通選挙法による選挙は、加藤の急死を経て、昭和3年2月に実現した。その年の6月に銅像は建設された。普選実現という偉業を名古屋の人々が称えているのである。
その銅像が失われたのは昭和19年のこと。このブログでも加藤友三郎首相や早速整爾大蔵大臣の銅像台座を紹介したことがある。いずれも戦時中の金属供出が原因で、同時期に渋谷駅前のハチ公像も「出征」している。
加藤高明は名古屋とどのような関係があるのだろうか。
名古屋市中区栄一丁目に「加藤高明少年時代住居地」がある。説明板があるからそれと分かるが、往時を偲ぶよすがはない。
少年の多感な時期をここで過ごしたようだが、もう少し詳しい時期を説明板に教えてもらおう。
慶応三年(一八六七)、八歳のとき名古屋に転居した。十三歳のとき、親戚加藤家の養嗣子となり、明治六年、勉学のため東京に出るまで、この地で育った。
祖父母の隠居に伴って名古屋で暮らすようになり、やがて縁あって親戚筋の加藤家の養子となった。県立洋学校では英語の勉強に没頭した。名門として知られる旭丘高等学校の源流である。
次に加藤の生誕地を訪ねて名鉄に乗った。
愛西市佐屋町宅地に「懐恩碑(かいおんひ)」がある。「子爵加藤高明書」とある。爵位は明治44年に男爵、大正5年に子爵となり、死後に伯爵を贈られた。
碑の左側の小さな説明板には、次のように記されている。
故郷を遠く離れて暮らし、故郷を懐かしく思うとともに、感謝とお礼の意を込めて、加藤高明伯が揮毫したもの。
平成七年十月 柚木の明教寺から移設
生誕地はここから南方約100メートルの地点だと、右側の副碑に示されている。佐屋から名古屋時代の加藤については、次のように記されている。
加藤高明は、万延元年(一八六〇年)正月三日、父服部重文(佐屋代官所手代)・母久子の次男として佐屋で誕生、幼名は総吉。七歳で祖父と共に名古屋に移住し、十四歳で加藤家を継ぎ高明と改名。
名古屋への移住と加藤家との養子縁組の歳が先の説明板と異なっている。加藤伯伝記編纂委員会(代表:幣原喜重郎)『加藤高明』(昭和四年)に掲載されている年譜によれば、数え年で八歳のとき名古屋に移住、十三歳で加藤家を継ぎ、十五歳で高明と改名している。名古屋の説明板は数え年、佐屋は満年齢で示しているようだ。
現在の東大を首席で卒業した加藤は外交官として活躍し、4度も外務大臣を務めている。基本的な立場は「親英」で、普選を実現させたことからリベラルな印象があるものの、第一次世界大戦参戦や対華二十一ヶ条要求など、イギリス同様に帝国主義外交を展開した。
民主化の金字塔である普通選挙法と同時に、悪名高き治安維持法も成立させていることから、加藤高明はどこまでも現実的な政治家であった。ソ連の影響による暴力革命を防ぎ、我が国の議会制民主主義の発展を企図していたのである。
ところが今やどうだ。革命という言葉は完全に死語と化し、政権におもねる官僚の忖度を追及する意欲もない。権力に近い者だけが得をして、正義が通らない無力感が広がっている。もうすぐ統一地方選があるが、無投票当選となる選挙区は過去最多だとか。加藤が守ろうとした民主主義は、内側から崩壊していくのだろうか。