先月20日、「スレブレニツァの虐殺」を指揮したとされる戦犯に終身刑が下された。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争当時のセルビア人勢力指導者、ラドヴァン・カラジッチ被告に対する判決である。
1992年、ユーゴスラビア解体によりボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立すると、国内のムスリム、セルビア人、クロアチア人の確執が表面化した。ムスリム主導に反発するセルビア人は「スルプスカ共和国」を樹立し、カラジッチは大統領になった。
セルビア人勢力は支配地域からムスリムを追放する民族浄化を進め、1995年7月、スレブレニツァに孤立していたムスリム7000人以上を虐殺した。当時の最高指導者であったカラジッチは、このジェノサイドに対する罪を問われたのである。
愛西市森川町に「古木江(こきえ)城跡」がある。
スレブレニツァのジェノサイドと尾張の古木江城と、何の関係があるのか。我が国でもかつて大量虐殺が行われていた。よく知られているのは比叡山焼討だが、一向一揆をつぶした長島攻めでも酸鼻をきわめる仕打ちが行われた。いずれも理想の上司に名が挙げられる織田信長の所業である。
長島攻めの終焉について記した『信長公記』巻七天正二年九月二十九日条を読んでみよう。
中江城、屋長島の城、両城に在の男女二万計(ばかり)幾重も尺(さく)を付取(つけとり)籠被置候(こめおかれ)。四方より火を付(つけ)焼ころしに被仰付(おおせつけられ)、属御存分(ごぞんぶんにぞくし)、九月廿九日岐阜御帰陣也。
なぜ信長はここまで非情になったのか。ここ古木江城での戦いが遠因ではないかという。何があったのか、説明板を読んでみよう。
室町時代の末期、織田氏の砦(とりで)として築かれました。
当事この地方には、一向宗が広がっていて、真宗門徒のその教義に対する信心は絶大なもので、信長の意向に反抗しました。
信長は、長島の一向宗門徒を滅ぼすため、弟の信興にこの古木江に城を築かせ、門徒勢力の分断をはかりました。
信興がこの城を守っているとき、弥富の服部党や近くの農民に囲まれ、六日間戦いました。しかし兵力が少なく城に攻め込まれ、やぐらに上がって自害したと「信長記」には書かれています。地元では城外で討ち死にしたと伝えられています。元亀元年(一五七〇)一一月二一日のことです。
古木江城は小木江とも書き、地名にも「子消」「討レ」「頭俱前」などの名が残っていました。
富岡神社は、この一角に城の鎮守としてあったと考えられています。
立田村教育委員会
信長は可愛がっていた弟を一揆勢に殺されたのである。この戦いを記した『信長公記』巻三元亀元年十一月十六日条を読んでみよう。
長島より一揆令蜂起(ほうきせしめ)取懸(とりかかり)、日を逐(おく)り攻申候(せめもうしそうろう)。既(すでに)城内へ攻込也。一揆之手にかゝり候ては御無念と思食(おぼしめし)、御天主へ御上り候て、霜月廿一日、織田彦七御腹めされ、無是非(ぜひなき)超目(てうもく)也。
信長は、弟の死に対する報復を「男女二万ばかり」の人々に向けた。人命を奪うことの非道さは死者の多寡に関係ないが、2万人という大量虐殺はいかがなものか。
民族の分断をもたらしたジェノサイドは断罪され、近世を切り開く統一戦争ならば大量虐殺が看過される。時代が違うといえばそこまでだ。恐怖の中で死を迎えた人々に等しく哀悼の意を表し、今後の平和を誓おうではないか。
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