我が国を代表する時計「CITIZEN」は、大正13年に独自に開発した懐中時計を売り出した。この時計は市民に末長く愛されるようにと、「市民」を意味する「CITIZEN」と命名された。名付け親は、東京市長を務めた後藤新平である。
名古屋市中区大須一丁目に「後藤新平宅跡」がある。石柱には「後藤新平先生暫居跡」とある。
後藤新平は、初代満鉄総裁、鉄道院総裁、逓信大臣、外務大臣、内務大臣、帝都復興院総裁など、さまざまな役職を務めている。特に関東大震災からの復興計画は、東日本大震災後に大いに話題となった。名古屋とはどのようなゆかりがあるのか、説明板を読んでみよう。
安政四年(一八五七)岩手県奥州市に生まれた。福島県須賀川医学校卒業後、招かれて来名。明治十四年(一八八一)愛知県病院長兼医学校長となり、明治十六年、内務省に転ずるまでここに住んでいた。
明治十五年、岐阜で自由党総裁板垣退助が刺客に襲われた時、ここより人力車で馳せつけ応急手当をしたといわれる。のちに内務大臣、伯爵となり政界で活躍した。
名古屋市教育委員会
新平の生まれは奥州水沢。福音県須賀川で医学を修め、明治9年からは名古屋で病院勤務を始めた。校長を務めた愛知医学校は名古屋大学医学部の源流となっている。事件は明治15年4月6日に発生した。板垣退助が刺客に襲われたのである。
新平は、愛知県令の依頼を受け人力車で岐阜に向かい、板垣を診察した。武藤鏡浦『板垣遭難 自由の碧血』(岐阜日日新聞社、大正7)によれば、二人は次のような会話をしたという。
新平「閣下の御様子は、一向御負傷の体と見受けられん。却って御愉快やうに見受けますが、如何です?」
板垣「お察しの通りぢゃ、退助は固より国家の為めに死生を念頭に置かぬ。」
人を食ったような物言いをする医者に周りの者は面食らったが、退助だけは「面白い奴ぢゃ、あれは医者には惜しい。政治家にしたら良からうに…」と、新平の将来を看破したという。さすがは大物どうし、鴻鵠の志は鴻鵠にしか知り得ないということか。
新平は寺内正毅内閣のもとで外務大臣を務め、大正七年にシベリア出兵を断行した。赤化の波及を恐れているのかと思えば、大正十二年にはソ連外交官のヨッフェと会談し、日ソ国交樹立に尽力した。奥州出身の医者は、国家外交の処方箋を書くことのできる大物政治家であった。
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