文字は情報伝達を目的とする記号である。恥ずかしながら私は、字の拙さをこのように言い訳していた。読めりゃいい、ってわけだ。さりながら、やはり字はうまくなりたいと思う。筆跡は人柄を表すと言うではないか。
本日は反省の気持ちを込め、寺子屋での手習いに関する史跡をレポートする。
この子は誰? 何かにしがみついている。何だろうか。
兵庫県赤穂郡上郡町苔縄に「苔縄筆塚」がある。町指定の史跡である。
ミサイルに見えてしまうのが現代人の悲しさだろう。科学技術の発達で私たちは大切なものを失っているような気がする。いや、このような邪念は、筆塚をつくった人に何の関係もない。素直な気持ちで説明板を読んでみよう。
筆塚とは、使い古した筆を祀ったり、学問の師の徳を門人たちが慕って建立された石造物です。江戸時代後半(十八世紀後半)以降各地で造られました。
上郡町内には、逆さに立てた筆を唐子風の子供が抱きかかえられる全国的にも珍しいかたちの筆塚が、苔縄筆塚をはじめ、三基のこっています。
苔縄の筆塚は、苔縄村の庄屋で歌人、寺子屋の先生でもあった千種惣右衛門朝貫(そうえもんあさぬき)の門弟たちが、没年の翌年の元治二年(一八六五年)に遺徳を慕って建立したものです。
筆塚の筆と唐子の石柱をのせる上下二段の六角台石には、上段に「千種先生」、下段に「門弟建」「世話人□□吉左エ門、橫山□三良、橫山辰吉」「元治二年丑三月日」と刻まれています。
嗚呼、なんと美しい師弟愛。学びたいという意欲と育ってほしいという期待が一つの形になったのが、この筆塚なのだ。元治二年(1865)は慶応元年でもあり、第二次長州征伐が始まった年である。我が国の歴史は大きく動こうとしていた。
学制発布まであと7年。識字率が高く、学びに向かう姿勢を大切にする我が国の教育文化は、私的教育機関である寺子屋の時代に準備されていた。学ぶことができたおかげで、今の自分がある。筆にしがみついている子どもの姿は、学びながら育ちゆくという古今変わらぬ教育の営みを表している。
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