平成から令和への改元は、国民こぞって代替わりを祝祭する貴重な機会となった。誰もが天皇陛下のご即位を心より御祝い申し上げ、上皇陛下のますますのご長寿をお祈りしている。今回の譲位は特例とされているが、崩御に伴う自粛ムードがなく経済効果が高いことから、今後の先例となるだろう。
ただし法的には問題があって、今回の譲位が天皇の意思表示によって始まったことから、天皇の政治介入と見えないわけではない。本来はそう見えないように、天皇の意を汲んだ政権が国民の側から提案する形で法整備をすべきであった。
安倍政権に近い保守派は、天皇は権威の源泉として存在することに意味があると言い、その役割は祈りだという。被災地への訪問ができずとも、宮中の奥深くで祈っていれば十分だと考えている。
象徴は必ずしも人間的である必要はない、ということか。承詔必謹を臣下の本分とするならば、天皇のご意思こそ最も重んずべきはずだが、神棚の上に据えたお札よろしく、頭だけ下げているように見える。
長州藩は孝明天皇の意向を無視して幕府を倒し、伊藤博文は天皇個人の意思が介入しにくい皇室制度をつくった。長州の流れに連なる安倍政権も、皇室の将来を真剣に心配している先帝との距離を遠く保ってきた。安倍首相は皇位継承問題を旧皇族復帰で解決しようとしており、本格的な議論を始めようとしない。
陛下の御心に共感を示さない安倍政権の不忠には、憤りさえ覚え…。いや、少し冷静になって考えてみよう。今回は陛下が人格的に優れたお方だからそう思えたのであって、物議を醸す人物だったらどうだろう。人心を失った王室が存続しえないのは、ネパール王室の末路を見てのとおりだ。
政権が天皇の私心に左右されることがあってはならない。また、政治家は皇室の威光を利用することがあってはならない。つまり、天皇制と政治とは一定の距離がなければ、両者とも存続しえないということだ。もしかすると安倍政権は、国体と民主主義を守るために、深い配慮をしていたのかもしれない。
皇位継承が平和裡に実現したのは当然のように見えて、歴史的には必ずしも当たり前ではない。最も混乱を極めたのが南北朝の争いであった。本日は南朝の皇位継承者の悲劇的な末路をたどることとしよう。
赤穂市坂越に「小倉御前の墓」がある。
高貴なお方のようだが、なぜここに葬られているのか。何か事情がありそうだ。説明板を読んでみよう。
この五輪石塔は、南北朝時代の後亀山天皇の皇子、小倉宮の墓と言伝えられています。皇子は、京都嵯峨の小倉山に住み人々に小倉宮と慕われていましたが、将軍家との争いのために坂越(さこし)へ逃れて隠れ住みました。しかし争いに負けたことを知った小倉宮は坂越浦に身を投げて亡くなったと伝えられています。その場所を御前岩と言い、船祭りの日にお供えをして供養をしています。
後亀山天皇は南朝最後の天皇で、明徳三年(1392)に、次の三条件により足利義満との和睦に応じた。
①南朝の後亀山天皇を正統として、三種の神器を北朝の御小松天皇に譲る。
②今後の皇位継承は両統迭立(南北朝双方から交代で天皇を出す)とする。
③旧南朝方の生計維持のため諸国の国衙領を与える。
このころ南北朝の勢力は圧倒的に北朝有利だったが、南朝のプライドにはじゅうぶんな配慮をしている。それは皇位の象徴である三種の神器を手に入れるためであり、バランスある指針の提示で政権への信頼度を高めるためでもあった。
特に皇位継承については、今回は後亀山天皇(南朝)から後小松天皇(北朝)へ、次回は後小松天皇の次は小倉宮恒敦(後亀山天皇の皇子)へと譲位されるはずであった。
ところが応永十五年(1408)に足利義満が没すると、幕府は後小松天皇の皇子の即位を画策し始める。これに憤った後亀山上皇が同十七年に吉野に出奔するが、幕府は無視して同十九年に皇子の即位を実現させる。これが称光天皇で、以来皇位は北朝に継承され、平成から令和の今に至るわけである。
小倉宮恒敦は応永二十九年(1422)に没したことが知られているが、実際には、どこでどのように亡くなったのかは記録にない。坂越の伝説が史実をどこまで反映しているのか不明だが、皇位継承を反故にされた皇子の気持ちを語り伝えようとしているのは確かだろう。
現代の皇位継承は争いなどあるはずもなく、我が国の全土が祝祭ムード一色に染まった。新聞によれば中韓も含めて外国メディアも好意的に報道しているという。ただ一つ気がかりなのは、将来の皇位継承そのものが可能かという根本的な問題が放置されていることだ。
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