総理になりそこねた政治家に加藤紘一氏がいる。リベラルな改革派イメージで、その切れ味は多くの国民に期待された。一時期は「プリンス」と呼ばれたものの、内閣打倒が失敗に終わったことで、勢力を大きく後退させることになった。
政治家は「常在戦場」とよく口にするが、政界はまさに戦国の世さながらである。誰もが下克上を狙っている。本日は、備中一国を支配するほどの実力派戦国大名でありながら、近世大名になりそこねた三村氏の夢の跡を訪ねることとしよう。
高梁市成羽町成羽に「三村氏居館跡」がある。市指定史跡である。
街中にある普通の公園にしか見えないが、井戸が残されていることで屋敷跡だと分かる。まずは市教育委員会の説明板を読んで概略をつかもう。
天文2年(1533)に星田郷(旧美星町)より入部した戦国の武将三村家親が本陣を西之坊において成羽川の北岸、成羽の中央の平地に築営した平地城で成羽城と呼ばれています。
高い土塁(高さ4m、幅8m)に囲まれ、その外側には深い堀をめぐらせた堅固で広大な構えの中世の武家屋敷です。
在城領主は三村家親、三村親成、三村親宣と三村氏滅亡後は小早川隆景(本陣とする)、毛利氏(代官)、山﨑家治。山﨑豊治からは月見・菊見の宴に使用したと言われています。
現在は土塁(居館の北東)、石垣の一部と堀の遺構が当時の名残をとどめています。古町はこの三村氏居館を中心に発達した陣屋町です。
三村家親は備中国内に数多いた国人領主の一人で、交通の要衝である成羽に進出し、さらなる勢力拡大に努めた。この時代の備中には出雲尼子氏の勢力が拡大していたが、家親はライバル荘氏に対抗して安芸毛利氏と連携する。『陰徳太平記』巻之二十一「三村家親属毛利家付備中国猿懸城合戦之事」によると、家親が味方になったことを聞いた毛利元就は、次のように言って喜んだという。
此即一国ヲ得タルノ扶ケアリ
家親は元就も一目置く有力武将であった。この頃のことだろうか、成羽町教育委員会『成羽史話』には、次のようなエピソードが掲載されている。
天文年間、成羽の城主三村家親、お館近く絶世の美女が行くのを認められた。家臣に呼びとめさせ、側女(そばめ)にと所望すると「おぼしめしなれば、常侍はかなわねど、夜ナ夜ナははべり申すべし」と答えた。
その後家老の一人、女の来るころ館に怪光のさしわたるのに気づき、これを公に告げた。公も「感ずるフシあり」と、その夜頭髪数本をとり翌朝しらべてみると、こはおどろくべし、長き白銀のけものの頭髪であった。
その夜、家親が一太刀浴びせると、怪物は逃げ出してしまった。血痕をたどると羽山渓の鍾乳洞につき当たり、中に八尺の化け猫が死んでいた。以来、三村家では猫を飼わなかったという。
ここで三村家の命運は急展開する。絶頂期の家親は永禄九年(1566)に宇喜多直家によって暗殺され、子の元親は翌年の弔い合戦に敗れてしまう。さらに天正二年(1574)に毛利と宇喜多が手を結ぶや、元親は織田信長と連携するが、翌年またしても戦いに敗れ自刃する。
織田との連携に反対した叔父の親成(ちかしげ)とその子親宣(ちかのぶ)は、毛利氏の配下について成羽の地を安堵された。この頃の親成について、岡谷繁実の人物列伝『名将言行録』「水野勝成」に次のように記述されている。水野勝成は後に福山藩主となる武将である。
勝成曾(かつ)て落魄(らくはく)して備中に行き、三村紀伊守成親に寓居(ぐうきょ)す。成親は毛利家の臣従なり。成親其貴族なるを知て、上客を以て之を待せり。
成親は親成の誤りで、当時流浪の身であった水野勝成を助けていた。勝成はその恩を忘れず、関ヶ原の戦いの後、領地を失った三村氏を召し抱えたという。
三村氏の居館は私たちに様々な物語をしてくれる。家親の戦国大名デビュー、毛利元就からの信頼、突然の死、織田方についた元親の無念、毛利方に残った親成と水野勝成の出会い、関ヶ原敗戦による成羽からの退去。もしかすると化け猫の出現は、三村家凋落の予兆であったのかもしれない。