物事の始まりには英雄時代が必ずある。視聴率最低だが高評価の声も聞かれる『いだてん』が描いたように、我が国の陸上競技は金栗四三、三島弥彦に触れずして語ることができない。それと同様に考古学における相澤忠洋は、研究史に画期をなす発見をした英雄といえよう。
みどり市笠懸町阿左美に「岩宿遺跡」がある。国指定の史跡である。石碑の揮毫は文部大臣の灘尾弘吉である。灘尾は池田内閣と佐藤内閣で文相を務めた。木柱と石碑と別の写真にしているが同じ場所にあり、木柱は現在、石の標柱となっている。
平成9年に初めて岩宿遺跡を訪れた時、ついにここに来た、と感慨深く思ったものだ。というのも岩宿は、納豆の行商をしていた相澤忠洋さんがそれまでの常識を覆す大発見をする、という劇的なストーリーとともに記憶していたからだ。私は物語を思い起こしながら説明板を読んだ。
岩宿遺跡A地点
この場所は、日本で初めて関東ローム層の中から石器が出土することが、発掘調査によって確認された記念すべき所です。
岩宿遺跡発見以前、当時の日本では縄文文化が日本列島最古の文化であると考えられていました。しかし、この遺跡の発見によって日本列島にも旧石器時代の人々が生活していた事がわかり、日本文化の始まりが1万年以上も古く遡る事になりました。
地元の考古学研究者であった相沢忠洋氏によって発見された石器類がきっかけとなって1949年9月11日から明治大学考古学研究室による試掘調査が行われました。
発掘調査団(団長杉原荘介助教授)には遺跡の発見者である相沢氏をはじめとして、明治大学からは試掘調査へ至るまでの功労者の一人でもある芹沢長介氏、さらに岡本勇氏、そして地元からは相沢氏の協力者であった堀越靖久、加藤正義の両氏が参加しました。
10月2日から10日までの間行われた本調査では、当時、阿左美層(褐色ローム層)、岩宿層(暗褐色ローム層)と名付けられた二つの地層から石器が発見され、新旧二つの文化層が存在した事が確認されました。
また、相沢氏採集の石器類については、これらの文化よりさらに新しいものと推定されています。
相澤さんについては意外にあっさりした記述だった。考古学においては石器の古さが重要なのであって、発見の物語は関係ないらしい。しかも、相澤さん発見の石器は確かに関東ローム層から出土しているのだが、比較的新しいものということだ。
岩宿遺跡のシンボルは何と言っても、黒曜石でできたあの美しい槍先形尖頭器であろう。相澤さんの『「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて』には、これを発見した時のようすが躍動感のある文章でつづられている。
山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。近寄って指をふれてみた。指先で少し動かしてみた。ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。それを目の前に見たとき、私は危く声をだすところだった。じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。完全な形をもった石器なのであった。われとわが目を疑った。考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。
「ついに見つけた!定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に……」
私は、その石を手にしておどりあがった。そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔にくっつけるようにして観察した。たしかに後からそこにもぐりこんだものでないことがわかった。そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。
それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。
もう間違いない。赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。
これは昭和24年(1949)7月のことであった。そして9月に明治大学の杉原調査団が本格的な発掘を行い、我が国に旧石器時代が存在したことが確定したのである。今年2019年は「岩宿遺跡発掘70年」ということで、6月23日の毎日新聞が書評欄で本の紹介をしていた。もちろん『「岩宿」の発見』は筆頭で挙げられている。
世界遺産や、日本遺産など近年の文化財顕彰は単に古いとか珍しいというだけでなく、人や社会とどのように関わってきたかというストーリーが評価されている。であるなら、出土状況が明らかで考古学研究に大きく寄与した槍先形尖頭器には、高く評価されるべきストーリー性があるではないか。
岩宿遺跡を評価するために、ポイントとなる事実を確認しておこう。相澤さんが現在の岩宿遺跡で最初に石器を発見したのは、昭和21年(1946)である。その発見場所はA地点ではなく向かい側のB地点である。同じB地点で昭和24年(1949)に槍先形尖頭器を発見した。同年の発掘調査はA地点で行われ、旧石器時代の存在を立証する発掘成果があった。「岩宿遺跡」の標柱はA地点に建てられている。杉原調査団が発掘した「岩宿遺跡出土品」は国の重要文化財に指定されているが、相澤さんの槍先形尖頭器は無指定である。国重文の出土品に比べると槍先形尖頭器は新しい時代のものである。
古い石器が出土したA地点を遺跡として高く評価するのは理解できる。しかし、ストーリーを楽しむという観点からは、相澤さんによる石器の発見が研究の障壁を打ち破ったことにこそ意義があるだろう。ならばB地点とそこから出土した石器は、考古学研究史の遺産として評価すべきではなかろうか。今年70年となる遺跡発掘より、発掘3年前の「岩宿の発見」こそ重要である。
6月20日に放映されたEテレ「フランケンシュタインの誘惑」では、天体物理学の権威アーサー・エディントンが若きスブラマニアン・チャンドラセカールをつぶしにかかり、ブラックホール研究を40年遅らせたことが紹介された。この構図を岩宿遺跡発掘に重ね、専門家として名を成していた杉原荘介VS新進気鋭の芹沢長介&アマチュアの相澤忠洋、のように学問の闇と見る向きもある。
しかし杉原は学者として遺跡の価値を客観的に評価したのであり、他人を貶める意図はなかったはずだ。ただ私が求めているのは、3万年前の石器が出土した旧石器時代の遺跡ではなく、熱意ある若者の発見が考古学研究史の画期をなしたという記念碑的遺産なのだ。いまB地点には、私が訪れた時にはなかった相澤忠洋胸像がある。今年はA地点の「岩宿発掘」から70年で、B地点の「岩宿発見」からは73年となる。
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