うちの集落は農村地帯だったから空襲されることはなかった。防空壕が掘られたという話も聞かないし、干拓地なので掘っても泥水が出るだけだろう。それでも、グラマンの機銃掃射で一人亡くなっている。民間人への攻撃に関して、1977年のジュネーヴ諸条約第一追加議定書第51条2には、次のように規定されている。
文民たる住民それ自体及び個々の文民は、攻撃の対象としてはならない。文民たる住民の間に恐怖を広めることを主たる目的とする暴力行為又は暴力による威嚇は、禁止する。
この規定が第二次大戦中になかったから、機銃掃射は違法行為でない、ということではなかろう。軍民問わない無差別な攻撃の違法性は、当時から認識されていた。原爆投下についても然り。本日は長崎市民の生死を見つめた防空壕についてレポートする。
長崎市橋口町の長崎市立山里小学校に「旧山里国民学校防空壕跡」がある。
石垣やコンクリートできれいに見えるが、以前は暗いほらあなに過ぎなかった。長い歳月を経て浸食や崩落が生じたため、平成12年度に補強されたのである。もはや当時の様子をイメージしにくくなっているが、穴そのものが歴史の語り部として戦争を伝えている。なぜ穴を掘らねばならなかったのか、ということを。
我が国の「防空」意識はいつごろから高まったのだろうか。私は空襲が激しくなった太平洋戦争末期、昭和19年頃とばかり思っていたが、早くも昭和3年に大阪で大規模防空演習が行われ、日米開戦前の昭和15年には防空壕構築指導要領が作成されていた。備えあれば憂いなし、と言うものの、数年後の結末をだれが予想できたであろうか。
実際の防空壕づくりは空襲の激化とともに各地で行われるようになり、長崎も例外ではなかった。説明板には、次のように記されている。
山里国民学校の防空ごう
爆心地から北北東へ約700m、山里小学校の校舎裏(原爆投下当時は山里国民学校の運動場脇)の崖に残る防空ごう。
第二次世界大戦の末期には、頻繁になった空襲から命を守るためにあちらこちらに防空ごうが掘られ、この山里国民学校にも、東側から北側にかけての崖に20個をこえる防空ごうが掘られていた。戦後、東側にあった浅い防空ごうは埋め戻され、現在ではこの北側の防空ごうが残されているだけである。北側の崖に掘られた防空ごうは比較的深く、その中に、理科室の実験器具や学校の重要書類が運び込まれていたため、山里国民学校は爆心地に近かったにもかかわらず、学籍簿や卒業生台帳などの焼失を免れた。
1945年8月9日午前11時2分、原子爆弾さく裂の瞬間、この北側防空ごうでは教職員の手によって、さらに深くするための作業が行われていたが、一瞬の差で防空ごうに飛び込んだ3人の先生方が無事であったものの、熱線や爆風によってたくさんの方々が爆死したり、負傷したりした。また、負傷しこの防空ごうに運ばれた方々もその後次々に亡くなられた。
2001年(平成13年)3月 長崎市(原爆資料館)
重要な書類や備品を防空壕に運び込み、さらに深く掘ろうとしていたというから、空襲の危険性はかなり感じていたのだろう。昭和20年8月6日に広島に原子爆弾が投下されたのちに、長崎をはじめ各都市に、次のような文が書かれたビラが投下されたという。
この原子爆弾が唯一箇広島に投下された際如何なる状態を惹起したか調べて御覧なさい。
だから「即刻都市より退避せよ」とビラは脅しているのだが、調べる手段はないし、そもそも信じてはならぬと我が国の当局から言い聞かされている。こうして無辜の長崎市民が多く殺害されることとなったのである。この防空壕が先生3名の命を守ったことが、せめてもの救いであった。
原子爆弾投下は明らかに無差別大量殺戮であるが、我が国の政府が米国を非難することはない。米国の核の傘にいるからである。北朝鮮が短距離弾道ミサイルをポンポン飛ばしているが、安倍首相が北朝鮮を非難することはない。北朝鮮の射撃試験は彼の国の自衛権の範囲内だ、と本気で考えているのかもしれない。
原爆も弾道ミサイルも「文民たる住民の間に恐怖を広めることを主たる目的とする暴力行為又は暴力による威嚇」でなくて何だというのか。「我が国の安全保障に影響を与える事態でない」なら非難しなくてよいというのか。ミサイル発射を首相が「国難」と扇動し、Jアラートを鳴らしていた頃を懐かしく感じるほどだ。
チャッピーさま
お役に立てて光栄に存じます。
投稿情報: 玉山 | 2024/10/29 19:53
自分も行くので事前調べでよかったです。
投稿情報: チャッピー | 2024/10/29 14:17