奈良の大仏を前にしたとき、その巨大さに感嘆する。聖武天皇が大仏を建立したのは、政情不安や天変地異、疫病流行などが相次ぎ、心の拠り所を求めたからである。その大きさは安定を表し、安らかなお顔は慈悲の象徴、こちらに向けられた右手は「怖がらなくていい」と語り、差し出された左手は救いの手である。
天皇は大仏への祈念だけでなく建立事業そのものにも人心の結集を期待していた。建立の詔の中で「この富と勢とを以てこの尊き像を造らむ」と言いつつ、「人有て、一枝の草、一把の土を持ちて、像を助け造らむと情に願はば、恣(ほしいまま)に聴(ゆる)せ」と、広く寄付を募っているのである。
頭では分かった気になっていた大仏建立だが、このたび長崎の平和祈念像を前にして、私は初めて聖武天皇の意図を実感することができた。
長崎市松山町の平和公園に「平和祈念像」がある。
平和広島の象徴は原爆ドームで、平和長崎の象徴は平和祈念像である。原爆ドームは被爆というあってはならない経験をした貴重な建物だが、平和祈念像は原爆投下から十年後に建てられたモニュメントである。歴史的な価値を言うなら原爆ドームだろう。それでも平和祈念像の前で訪れた人々が頭を垂れているのは、像に芸術的な崇高さがあるからだ。
なんと当初は、平和祈念像を観光スポットの一つである風頭山(かざがしらやま)に建立する案があったらしい。ここなら長崎復興の象徴として市街地から見上げることができ、観光面からの期待があった。
しかし結局は、観光よりも慰霊が重視されたらしく、爆心地に近い現在地に建立されることとなった。この像には、どのような思いが込められているのだろうか。説明板を読んでみよう。
この平和祈念像は、史上最大の惨禍によって瞬時に数多くの同胞市民を失い、筆舌につくし得ない悲惨苦に当面した長崎市民が、世界恒久平和の実現を広く世に訴えこの惨禍を再現せしめてはならないという切なる念願により、世界恒久平和のシンボルとして昭和30年(1955年)8月の原爆10周年記念日に建立されたものであります。
平和祈念像は、国内はもとより、海外からも拠出された浄財によって、彫刻界の権威、北村西望氏製作による全長約10mの青銅男神像であり、上方を指した右手は原爆の脅威を示し、水平に伸ばした左手は平けく安らけくと平和のすすめる姿であり、頑丈な体躯は絶者の神威を示し、柔和な顔は「神の愛」または「仏の慈悲」を表し、また軽く閉じた目は戦争犠牲者のめい福を祈っている姿であります。
なお、折り曲げた右足はめい想即ち静、立った左足は救済即ち動、何れも神仏の特性を表現したものであり本像はその規模において、またその思想において、この種の彫刻としては、世界にもその類を見ない雄大な芸術作品であります。
長崎市
寄附金を募ったことやポーズに意味のあることなど、1200年前の大仏建立と重なる面は多い。原爆の惨禍を乗り越えて復興に力を傾注していた長崎の人々の思いは、世の中の安寧を求めた聖武天皇の思いと同じだったであろう。
平和祈念像の裏に回ってみよう。像の作者、北村西望の言葉が台座に刻まれている。
この言葉と平和祈念像は一体不可分のものであり、言葉と像、両者に込められた願いによって成り立つ一大モニュメントなのである。翻刻してみよう。
平和祈念像作者の言葉
あの悪夢のような戦爭
身の毛もよだつ凄絶悲惨
肉親を人の子を
かえり見るさえ堪えがたい眞情
誰か平和を祈らずにいられよう
茲に全世界平和運動の先駆として
この平和祈念像が誕生した
山の如き聖哲
それは逞しい男性の健康美
全長三十二尺餘
右手は原爆を示し左は平和を
顔は戦爭犠牲者の冥福を祈る
是人種を超越した人間
時に佛 時に神
長崎始まって最大の英断と情熱
今や人類最高の希望の象徴
昭和三十年春日 北村西望
被爆から十年。原爆のリアルは人々の脳裏に刻まれていた。「身の毛もよだつ凄絶悲惨」という言葉のとおりだったはずだ。涙を流すどころではなかっただろう。ところが、記憶は歳月を経れば経るほど、美しいものだけが残されてゆく。いつのまにか、せつない戦争アニメのようなイメージで捉えられている。
戦争の記憶が遠い過去になった時、再び戦争の惨禍が人々を襲うことだろう。私たちは常に昭和20年に帰らなければならない。現代社会はすべてここから始まっているのだから。
コメントありがとうございます。
戦争の悲惨さと人々の悲しみは、これからも語り継いでいきたいものです。
投稿情報: 玉山 | 2022/11/04 21:34
悲し出来事。
投稿情報: 奈々夏 | 2022/11/04 15:08
悲しい出来事です。詳しく戦争について知りみんなに悲しさを知ってもらいたいです
投稿情報: 夏菜子 | 2022/11/04 15:07