北条早雲と斎藤道三は下剋上の典型的な戦国大名として知られているが、大河ドラマに何度も登場するのは道三で、早雲が出てくることはない。ずっと昔の『国盗り物語』は道三が主役で平幹二朗が演じており、来年の明智光秀が主役の『麒麟が来る』では本木雅弘が道三を演じる。
早雲と道三の扱いの差はすべて織田信長とのからみがあるかないかであって、同時代に著名人がいなかった早雲はドラマに登場させにくいのだ。このことは早雲の実力をいささかでも疑うものではないし、歴史的な意義からは下剋上の先駆けである早雲こそ注目に値する。だが視聴率がとれるかどうかは別問題だ。
大河ドラマには誰もが知るヤマ場が必要だ。『麒麟が来る』の本能寺の変、『真田丸』の大坂の陣、『龍馬伝』の龍馬暗殺のように。視聴者は「待ってました!」と快哉を叫びたいのである。早雲の名前は誰もが知っているが、人生にどんなドラマがあったかはほとんど知られていない。
井原市神代町(こうじろちょう)の市指定史跡「高越城跡」に「北條早雲生誕之地」と刻まれた碑がある。平成2年(1990)に早雲まつり実行委員会によって建てられた。
右のほうには「史蹟 高越城址」と刻まれた碑がある。左側面には「北條早雲公四百五十遠忌記念」「昭和四十六年四月建之」「井原市 高越城址顕彰会」、右側面には、次のような説明文も刻まれている。
伊勢新九郎盛時、後の北條早雲は、高越山城主伊勢盛貞の二男として此の地に生れ、後年駿河に下り関東制覇の偉業を成した。
関東で活躍した早雲が西日本の備中出身であることは、今でこそ定説となっているが、以前は「諸説あります。」と注が必要な状態だった。すなわち、山城宇治説、大和在原説、伊勢素浪人説、京都伊勢氏説、備中伊勢氏説である。
このうち山城宇治説と大和在原説は『北条五代記』を根拠としている。原文で読んでみよう。
新九郎後ハ北條早雲宗瑞と改號す住國ハ山城うちの人也又一説にハ大和ありはらともあり
次に、伊勢素浪人説は『相州兵乱記』を根拠としている。地方武士から成り上がったというのは、私たちが抱くイメージにはよく合う。原文で読んでみよう。
然ニ永享年中、關東再ビ亂テ、動闘又止障(ひま)ナシ。其後伊勢國住人新九郎宗瑞(伊澤ト云所ノ人也)、明應ノ比、相州ニ來テ旗ヲ擧。
さらに、京都伊勢氏説は『寛政重修諸家譜』を根拠としている。これはかつて主流の考えだったようだ。「伊勢氏」の系譜のうち「伊勢貞親」の子「貞宗」の弟「貞藤」の項に、次のように記されている。
貞藤 初貞辰(さだとき) 新九郎 相模の北條某に養はれ北條を稱す。
また、貞親の子については異説も紹介している。上と同じく貞宗の弟である。
次は新九郎茂氏、初貞辰といひ、北條某が養子となり、長氏また氏茂にあらため、落髪して早雲入道宗瑞といふ。
名前は混乱しているが、要するに、早雲は京都伊勢氏出身で北條家の養子となったのだという。「北條氏」の系譜においては、中先代の乱の「北條時行」の子孫が、「行氏」「時盛」「行長」と連なり、「長氏」すなわち早雲に続いている。この項では、次のように説明されている。
長氏 新九郎 入道號早雲 母は伊勢備中守貞國が女
早雲は北條氏の嫡流だというのか。母は伊勢貞親の父貞親の娘である。
そして備中伊勢氏説である。根拠は天文22年に成立した『今川記』である。今川義忠の室となった姉、北川殿の話に続いて、次のように記されている。
其弟伊勢新九郎長氏と申人其比備中國より京へのほり今出川殿へ付申されしか今出川殿伊勢へ御下向の時御供に下りそれよりあね君をたつねて駿河國へ下向ありしか
このように、すでに江戸時代には情報がかなり錯綜していたようだ。これらの諸説を総合的に判断すると、もっとも妥当性があるのが備中伊勢氏説だそうだ。今、岡山県から関東地方へ出て活躍する人は多いが、早雲はその先駆けであった。
早雲も光秀も前半生は謎が多い。謎が多ければ自由に脚本を書くことができる。さまざまにフラグを立てながら本能寺の変に向かうこととなる『麒麟が来る』に、視聴率の心配はいらない。そこで、早雲推しの人たちも一計を案じ、北条五代をドラマ化しようと主張している。これなら本能寺の変を入れることができる。
大河実現の暁には、高越城でホギャアと生まれ、眼下の山陽道がはるか東へと続くのを眺めながら、「オレも京に上って、何者かになる!」と誓う新九郎少年のシーンが描かれることを期待することとしようではないか。
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