北条早雲は永正十六年(1519)八月十五日に伊豆韮山城で亡くなった。したがって、今年は没後五百年の記念の年である。小田原市は「北条早雲公顕彰五百年事業実行委員会」を設立し、小田原開府五百年の昨年から今年にかけて様々なイベントが催されている。
1519年当時、もちろん信長も秀吉も家康も生まれていない。この年、早雲と入れ替わるように生まれたのは今川義元である。早雲がまさに、戦国大名の先駆けであったことがよく分かる。
早雲の墓は北条五代の墓として、箱根の早雲寺にある。小田原北条家の墓所は高野山奥の院にもある。意外に知られていないのは、備中にある墓だ。さっそく行ってみよう。
井原市西江原町の法泉寺に「早雲と父の墓」がある。
左の「早雲寺殿天岳瑞公大居士」が北条早雲こと伊勢新九郎氏茂平盛時、右の「華光院殿静庵鎮公大居士」が伊勢新左衛門行長平盛定、早雲の父の墓である。
早雲は前回紹介したように備中伊勢氏の出身である。伊勢氏の本姓は平氏、早雲は備中時代に盛時と名乗っていた。北条早雲公顕彰五百年事業実行委員会のサイトでは「出自不明と未だ謎の多い北条早雲」と紹介されているが、すでに謎でも何でもない。この碑を見よ。
法泉寺本堂前に「北條早雲公と法泉寺」という碑がある。平成九年五月に西荏原史跡顕彰会が建立した。この碑には早雲の出自が、次のように記されている。
北條早雲こと伊勢新九郎盛時は、永享四年(一四三二)、備中高越山城主伊勢盛定の子としてこの地に生まれた。備中伊勢氏は、室町幕府の政所執事を世襲した名族京都伊勢氏からの分かれて、新九郎も、のち、京都伊勢氏の一族伊勢貞道(貞高)の養子に迎えられている。
撰文は戦国時代研究の権威、小和田哲男先生だから、早雲の出自論争はこれで決着だろう。早雲は名もない素浪人から身を起こしたわけではない。中央のエリート官僚として守護大名らお歴々にコネクションを持っていたのだ。
下剋上はアメリカンドーリムと並ぶ我が国のあこがれだ。それを体現した太閤秀吉は今も大人気だし、道三や早雲も同じように逆転人生を歩んだ典型だと見なされたのである。
彼が目指したのは決して下剋上の世ではなかったはずだ。地域の安定のためにとった必要な行動で、結果的に戦国大名と呼ばれるようになっただけのことだろう。早雲が亡くなって五百年。早雲を見直し顕彰するのによい機会となろう。東日本の方は早雲寺へ、近畿の方は高野山へ、そして西日本の方は法泉寺へお参りしてはいかがだろうか。
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