映画のシーンさながらに、首里城が火災で失われた。沖縄文化の象徴ともいえる貴重な建造物だっただけに、県民のみなさんの喪失感は大きいだろう。平和となった戦後にも、金閣寺や松前城天守など、貴重な文化財が火災で失われている。今年4月にはフランスでノートルダム大聖堂が焼け落ちた。近年は失われゆく様子が映像で記録されることが多く、衝撃の広がりは大きい。バーミアンの大仏が破壊される映像は見るのもつらかった。
大変な事件の話題から書き起こしたが、本日は失われゆく一里塚の話をしようと思う。事件性はないものの、やはり残念だ。
津山市領家に「茶屋一里塚」があった。切株だけが残り、次の世代の木が大きくなっている。道は旧出雲街道で、写真の方向は出雲方面である。
今は静かな旧出雲街道だが、すぐ南には国道181号、すぐ北にはJR姫新線と中国自動車道が通過しており、東西交通の要衝であることに変わりない。交通インフラの整備は行政の責任である。美作国主となった森忠政も幕命に従って一里塚を整備し、旅人の便宜を図ったという。
美作地域歴史研究連絡協議会『美作の道標と出雲往来一里塚』(平成29年)によれば、出雲街道の一里塚は絵図では確認できるものの、実際の樹木はほとんど残っていないようだ。そういう意味では、ここ茶屋一里塚は貴重だった。同書には次のように記されている。
茶屋集落の西寄りに茶屋一里塚を示す石柱があり、近年まで榎の老木があったが、枯れて伐採された。
樹は生き物だから、これも仕方のないこと、自然の摂理だ。榎の老木のかつての雄姿は、Googleマップのストリートビューで見ることができ、その高さは電柱に負けないくらいだ。2013年2月の撮影だから、次の更新まではネット上で観賞できるだろう。
一里塚として植えられる樹木は、全国的には榎が多く、松がこれに次ぐ。しかし出雲街道では松のほうが多かった。また、一里約4kmごとに塚を設けたというが、必ずしも正確ではなく、美作国内では平均約4.5kmだという。
アバウトな旧出雲街道の一里塚に対して、中国自動車のキロポストは吹田からの距離を1kmごとに明示している。速さと正確さに価値があるとされる現代を象徴するかのようだ。私たちの仕事も早く正確に仕上げることが求められるが、けっこう心身ともに負担が大きい。サラリーマンで街道歩きを趣味とする人が多いのは、旧街道のゆるさに魅力を感じているのかもしれない。
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