ひところ銀色夏生にハマっていた。角川文庫の『わかりやすい恋』とか『君のそばで会おう』は、今も家のどこかにあるだろう。『わかりやすい恋』では美少女フォトが詩のイメージをふくらませていたが、モデルは歌手デビュー前の森高千里だという。
詩は多くを語らないのに、人の心を動かす。語らないからこそ、心が歩みはじめるのかもしれない。本日は、大正時代の若者の心をとらえ、詩壇に大きな足跡を残した生田春月をレポートする。
米子市博労町二丁目の法城寺に「生田春月之墓」がある。
「墓」の文字がなかったら記念碑としか思えないだろう。碑には詩が、次のように刻まれている。
天地の寂びにしたしめば 詩(うた)の心は無くもがな 天地をかぎる我のなくバ われも葉末のつゆの玉
詩心があるばかりに、この世の美しさを詠まねばならない。「世の中にたえて桜のなかりせば」という業平と似たような心持ちだろうか。そうして生み出された詩があるばかりに、私たちの心も揺れ動いてしまうのである。どのような生涯なのか、説明板を読んでみよう。
憂愁の詩人が眠る法城寺
郷土の詩人生田春月(いくたしゅんげつ)の墓がある。
春月は、本名を清平(せいへい)といい、生家の没落により各地を放浪の末上京して生田長江(いくたちょうこう)に師事した。苦学力行・詩・小説・翻訳など各分野に活躍し、特に大正6年発表の詩集「霊魂の秋」は、日本詩壇に大旋風を起こした。また、皆生海岸を舞台にした小説「相寄る魂」は、当地方をはじめて小説の世界に紹介したものである。
春月は、昭和五年五月十九日、別府航路すみれ丸船上から瀬戸内海に身を投じ、三十九歳の生涯を終えた。墓の碑文は、作詩の一節を親友加藤武雄が書いたものである。
甘美で感傷的なその詩風は、若い世代の読者から絶大な支持を受けたという。『霊魂の秋』に続く詩集『感傷の春』所収「感傷の春」(一九〇八年-一九一二年)の序には、次のように記されている。
あゝ人情の花咲くところ、
うつくしき夢の世界に
遥かにも、遥かにも、あこがれて来し
そのあとをこゝにこそ書きとゞめたる。
これに続いて「少女の夢」「少年の恋」などの詩が掲載されているのだが、その中に「女子大学生の歌」があるので紹介しよう。
女子大学生の歌
妻となるには何がよき?
外交官か、軍人か、
華族、金もち、わるくない、
いくら何でもね、
三十五円の月給ぢや
ずゐぶん馬鹿にしているわ。
百円以下では私はいやよ。 (一九一〇年)
意識高い系の女子大生は、明治の終わりにはすでに出現していたのだ。朝日新聞が今月12日に配信した記事によれば、いま女性の6割が相手に求める年収を400万円以上と考えているという。25~34歳の未婚者を対象として実施されたネット調査の結果である。つまり、結婚に必要なのは収入なのだ。ならば、愛はどうなのか、甘美な言葉は要らないのか。
ご祝儀でもお年玉でもそうだが、はだか銭を渡す人はいない。美しく包んで渡すのが礼儀だ。それと同じように考えると、愛情あふれる甘美な言葉に包んで収入を差し出すこと、これが結婚だということが分かるのである。
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