今はGPSなるものがあるから困らないが、昔の旅は大変だったろう。目的地まであとどれくらいあるんだ?本当にこの道でいいのか?この分かれ道はどっちに行けばいいんだ?迷いと不安が尽きることがなかったのではないか。
GPSがなかった頃、私は登山でもないのに地形図と方位磁針を手にして旅をしていた。観光用のイラストマップでは正確な距離や方位がつかめないからだ。それが今やカーナビかスマホひとつあれば事足りるのである。技術革新は旅の効率を格段に向上させた。
とはいえ今も、交差点に案内標識は欠かすことができない。方面とその方向が示されているから、安心してハンドルを切ることができる。本日は江戸時代の旅人が頼りにした道標を紹介しよう。
真庭市蒜山下和(ひるぜんしたお)に「道標」がある。市指定文化財(建造物)である。
私はこの日、蒜山高原マラソンに出場した帰り道だった。のとろ温泉天空の湯に寄って疲れを癒そうと、カーナビに従って県道65号久世中和線を快走していた。快適な2車線道路が突如ヘアピンカーブの峠道になるのが上杉越(植杉越)だが、その峠の手前で見つけたのが、古そうだが文字が判読しやすいこの道標である。読んでみよう。
寛政六寅天 南無阿弥陀仏 五月吉日
此より 右ハつやま 左ハはで
願主 小椋紋助
寛政六年は1794年。その年の五月といえば、我が国では東洲斎写楽が出現し、フランスでは革命に伴う恐怖政治が進行していた。この世の安寧を阿弥陀仏に祈る地元の小椋さんが道標を建てた。封建社会の矛盾を抱えながらも社会は安定期を迎え、街道では人々の往来が盛んになっていた。
大庭郡下和村は天領であったが津山藩の預地だったから、右手に向かい上杉越を経て津山を目指す旅人も多かったのだろう。左手に向かうと、同じく津山藩預地の西西条郡羽出村である。かつては木地師がたくさん住んでいた。今の苫田郡鏡野町羽出に当たる。そういえば、木地師の姓に「小椋」は多い。紋助さんもその一人だったのだろうか。
旅先で道に迷うことはなくなったが、人生で道に迷うことはよくある。道を踏み外すことだけはしないつもりだが、選んだ道が正解だったのか不安になることは多い。五里霧中を歩いていると、何かが建てられていることに気付く。道しるべだ。「なんだ、人生にも便利な案内があったんだ」と喜んで近付いたら、書いてあったのは「この先、行き止まり」だったなんて。
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