内閣総理大臣を務めた菅直人氏のご先祖さまの話をしよう。ま、この民主主義社会、しかも民主党の御大に家系なんぞ何の関係もないのだが、たどると面白い発見があるのがファミリーヒストリーの魅力である。
首相を輩出した菅氏は、もと菅納氏を名乗っていた。今の岡山市北区建部町下神目に鷹栖城という山城跡があるが、これが菅納氏の居城であった。菅納氏は有元氏から分かれた一族で、有元氏は地方武士団「美作菅家党」の惣領である。
岡山県久米郡久米南町里方の誕生寺前の駐車場に「南朝作州七忠臣並忠死者二十人総忠魂碑」がある。
美作菅家党は南朝忠臣である。元弘三年(1333)、船上山で挙兵した後醍醐天皇にいち早く味方し、四月三日の四条猪熊合戦で六波羅方の武田氏らと激しく戦闘した。その様子は『太平記』第巻八「四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事」で、次のように描かれている。
美作国の住人菅家の一族は、三百余騎にて、四条猪熊まで攻入、武田兵庫助・糟谷・高橋が一千余騎の勢と懸合て、時移るまで戦けるが、跡なる御方の引退きぬる体を見て、元来引かじとや思けん、又向ふ敵に後を見せじとや恥たりけん、有元菅四郎佐弘・同五郎佐光・同又三郎佐吉兄弟三騎、近付く敵に馳並べ、引組て伏したり。佐弘は今朝の軍に膝口を被切(きられ)て、力弱たりけるにや、武田七郎に押へられて、首を被掻(かゝれ)、佐光は武田二郎が首を取る。佐吉は武田が郎等と刺違て、共に死にけり。敵二人も共に兄弟、御方二人も兄弟なれば、死残ては何かせん、いざや共に勝負せんとて、佐光と武田七郎と、持たる首を両方へ投捨て、又引組で刺違ふ。是を見て、福光彦二郎佐長・殖月彦五郎重佐・原田彦三郎佐秀・鷹取彦二郎種佐、同時に馬を引返し、むずと組ではどうど落、引組では刺違へ、二十七人の者共、一所にて皆討れければ、其陣の軍は破(やぶれ)にけり。
美作菅家党は、三百余騎で四条猪熊(四条大宮駅のあたり)まで攻め入り、武田兵庫助・糟谷・高橋の一千余騎の軍勢と長いあいだ戦ったが、後ろの味方が引き下がるのを見て、はじめから引かないと決めていたのか、また向かう敵に後ろを見せるのを恥と思ったのか、有元菅四郎佐弘・同五郎佐光・同又三郎佐吉兄弟三騎が、近付く敵に馬を並べて相手を組み伏せた。佐弘は今朝の戦いで膝を切られて弱っていたのか、武田七郎に押さえられて首を取られ、佐光は武田二郎の首を取った。佐吉は武田の家来と刺し違えてともに死んだ。敵二人は兄弟、味方二人もともに兄弟だったので、生き残ったところでしかたない、ともにいざ勝負と、佐光と武田七郎は持っていた首を両方へ投げ捨て、また組み合って刺し違えた。これを見て福光彦二郎佐長・殖月彦五郎重佐・原田彦三郎佐秀・鷹取彦二郎種佐は同時に馬を引き返し、がっちり組み合ってどさっと落ち、組み合っては刺し違え、二十七人の者が一か所で皆討たれたので、そこでの戦いは敗れた。
有元3兄弟と福光、植月、原田、鷹取という計7武将が「七忠臣」であり、大正四年に有元佐弘と佐光は正四位、佐吉は正五位、大正八年に植月重佐と鷹取種佐は正五位、大正十三年に福光佐長と原田佐秀も正五位に叙せられ、その忠義が称えられている。
この碑の興味深い点は側面に「民部介菅原尚忠並室法然上人叔母君秦氏彰徳」という銘板がはめ込まれていることだ。南朝忠臣と並んで法然上人の叔母さまも顕彰している。誕生寺に石碑があるのはそういうことなのだろう。
美作菅家党は、菅原道真七世の孫知頼が美作守として下向したことから興ったという。知頼の孫尚忠の妻は、秦豊永の娘である。ちなみに秦豊永は、美作国久米郡の人で『日本三代実録』や『本朝孝子伝』に孝子として紹介されている人物だ。菅原尚忠の妻のお姉さんは漆間時国の妻であり、時国の子が法然上人である。逆に言えば、上人のお母さんの妹が秦氏で菅原尚忠の妻だということだ。
石碑のもう一つの側面には「枢密院副議長従二位勲一等男爵平沼騏一郎謹題」と示されている。平沼は美作を代表する偉人で、昭和九年の建碑当時は枢密院副議長だったが、のちに第35代内閣総理大臣となった。碑の表題を書くのにふさわしい人物であろう。
だが平沼は、美作菅家党とそれほど関係があるように思われない。それより関係が深いのは、第94代内閣総理大臣の菅直人氏である。今後、美作菅家党を顕彰する機運が高まり、新たに石碑を建立することになったならば、その揮毫は菅氏に依頼するのがふさわしいだろう。
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