赤松氏の歴史は15世紀半ばを境に前後半に分けることができる。前半は守護大名として室町幕府という連合政権を支え、四職という高い家格を得た。嘉吉の変による衰退を経て、応仁の乱の頃には勢力を回復するものの、やがて家臣の浦上氏に実権を握られ、名ばかりの存在になってしまう。これが後半である。
以前の記事「守護大名赤松氏のその後」に一族の盛衰をまとめている。播磨を代表する名族であることは確かだが、後半のイメージのせいか「強くて頼もしい」という印象がない。
姫路市夢前町糸田・宮置に「置塩城跡(おじおじょうあと)」がある。国指定史跡「赤松氏城跡」の一部である。「おきしお」とも読む。上は「第Ⅰ-1郭(伝本丸跡)」、下は「第Ⅵ-3郭 大石垣」である。
登山道は細く険しいが、山上の曲輪群には驚いた。その広大さは、四職の一角を占めた守護大名にふさわしい。大石垣はふもとの方向を向いているから、見せるために築かれたのだろうか。詳しいことを説明板で読んでみよう。
室町時代の播磨守護職であった赤松氏の居城跡。夢前川の東側、標高370mの城山山頂に位置します。播磨地方で最大の山城で、遺構は東西約600m・南北約400mもの範囲に広がっています。
一般には文明元年(1469)に赤松政則が築城したとされていますが、近年の調査研究の結果、城が本格的に整備されたのは16世紀後半の赤松政村(晴政)・義祐・則房の頃であることが明らかになりました。なお、赤松氏は黒田官兵衛孝高が家老を務めた小寺家の主家に当たります。その後、天正年間(1573~1592)には廃城になったようです。
平成13~17年度に行われた発掘調査では、城内の最高所にあたる伝本丸跡(第Ⅰ-1郭)で天守的な性格をもつ建物が見つかりました。また、伝二の丸跡(第Ⅱ-1郭)などでは庭園を伴った礎石建物が発見され、屋敷が立ち並ぶ城下町的な景観が山上に広がっていたことが明らかになりました。さらに、土器や陶磁器類、瓦などの遺物が1万点以上も出土したことも注目されます。
置塩地区地域夢プラン実行委員会
これまでのイメージを覆す発掘成果である。晴政・義祐・則房の時代はまさに右肩下がり、守護大名家としてのメンツだけで生きていたのかと思ったら、そうではないようだ。播磨最大の城に山上都市まで築いていた。
宮置地内に「旧城下町・町村」がある。
城下町の形成は、まさに近世の萌芽といえる。標柱側面の説明を読んでみよう。
置塩城があった頃(一四六九-一五七九)、町村は小塩町とよばれ城下町として栄えていた。その名残りとして横大道筋、武家小路という地名や多くの商店の屋号が残っている。
五代城主、赤松則房が戦わずして豊臣秀吉に服し、置塩城は徹収され姫路城の一部として使用された。その後小塩町はさびれ町から元の村になったので町村とよばれるようになった。
撤収の撤の字が間違っているが、ともかく城下町の名残りが今も伝わっているという。時代の潮流をつかみ、家臣の集住など領国支配の体制刷新を図っていた。
置塩城最後の城主、赤松則房は秀吉の命により天正十三年(1585)、阿波住吉城に移封される。住吉城は置塩城とは異なり、まったくの平城である。置塩城を見た秀吉は赤松氏の築城技術に恐れをなし、本貫地の播磨から引き離すことにより勢力を削ごうとしたのではないだろうか。「腐っても鯛」というが、鯛は腐っていなかった。赤松氏を侮ってはいけない。
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