公益社団法人日本麻酔科学会という、かなり専門的な組織がある。麻酔なら私も歯の治療で大変お世話になった。世の中に麻酔の技術がなかったら、どれほど苦痛なことだろうか。日本麻酔科学会の先生方、今後ともよろしくお願いいたします。ちなみにこの学会のシンボルマークは朝鮮朝顔がデザインされている。
現今危機的な状況にあるコロナ禍だが、我が国は必ずやこれを克服すると信じている。なんといっても華岡青洲が世界初の全身麻酔手術を行うという高度医療技術を誇る国なのだ。その麻酔薬が朝鮮朝顔だった。19世紀初めすでに、今に続く先進医療が始まっていたのである。
その華岡青洲に学び、麻酔により乳癌の手術を行ったほか、備前で初めて種痘を実施した医者の話が今日の主題である。
岡山市北区御津金川に「難波抱節宅跡長屋門」がある。
ここで最先端の地域医療が行われていたのだという。説明板を読んでみよう。
抱節は幕末の人、中国地方屈指の漢方医として、特に産科、外科、種痘の先覚者であった。
思誠堂塾をひらき、門弟は全国より千数百を数えている。明治初年宅跡はすべて妙覚寺となったが、この長屋門は今日なお当時の遺構を伝えている。
御津ワンダークラブ 御津文化協会
産科は京の賀川蘭斎、外科は紀州の華岡青洲、種痘は備中足守の緒方洪庵に学んだ。著書『胎産新書』は江戸期最高水準の産科書だそうだ。また抱節の育てた多くの門弟の活動が、今の岡山大学医学部の源流となっている。岡山医学の大恩人と言えよう。
先生を慕う門人たちが相計って、明治28年に「抱節先生碑」が建てられた。妙覚寺の東側にある。篆額は初代岡山市長の花房端連、撰文は閑谷学校を再興した西毅一である。岡山の近代史を繙けば、抱節先生に必ず出会うだろう。
御津金川の見谷(けんだに)に「難波抱節先生墓塔」がある。
夫婦の墓が並んでいるが、左側が先生の墓である。亡くなったのは安政六年(1859)八月二十三日。この年大流行したコレラの治療に奔走しているさなかに自らも罹患し落命した。享年六十九。法名は「清風軒勁節虚心居士」という。強くて屈しない節操とこだわりを持たない素直さを併せ持つ偉人であった。
一族の墓が並ぶ中に小さな「妙玉童女墓」がある。文政十一年(1828)に三歳で亡くなった愛娘ハマである。このことについて『御津町史』は、次のように紹介している。
抱節は文政十一年(一八二八)天然痘で次女ハマを亡くしているが、そのころ天然痘は毎年のように流行して猛威をふるっていた。牛痘法が伝来したのは、嘉永二年(一八四九)のことと言われているが、抱節は翌年、足守藩侍医緒方洪庵(一八一〇-一八六三)について種痘法を学んだ。(抱節六〇歳、洪庵四一歳であった)この時金川から五人の子供を連れていったそうであるが、その中に親友寺田東窓の曽孫、万寿女(寺田智祖母)がいた。
難波先生に連れられて、同行十人ばかりで足守へ行き、緒方洪庵先生の身内の方からとった痘を植えてもらい、痘がよくあがったので金川へ帰り、土地の子に植えるため、片方の袖をまくってたすきをかけ、その腕を綱でつるして一日中苗元にされた。(寺田智談)
このようにして、近辺に種痘を広めた。これは備前では最初の牛痘実施であった。
先生が熱心に種痘の普及に取り組んだのは、子を亡くす親のつらさが痛いほど分かっていたからだろう。それまでは神に祈るしかなかった病除が、種痘により確実にできるようになった。
先の見えない病禍の今だから、医療不安を解消した先生の功績を見直すとともに、ワクチンや薬の開発をされている研究者、なによりも最前線で医療に従事しているみなさんに敬意を表したいと思う。
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