武田騎馬軍団と対峙する信長は、兵に鉄砲三千丁を持たせ、次のように下知したという。
敵馬を入れ来らば、間一町までも鉄砲打たすな。間近く引受け、千挺づゝ放ちかけ、一段づゝ立替り/\打たすべし。
いわゆる三段撃ちの新戦法である。これぞ信長の革新性を象徴するものと考えられてきたが、近年の研究によれば史実ではないようだ。史料性の高い太田牛一『信長公記』に三段撃ちは記述されていないし、千丁ずつ一斉にズドーンなんて現実には至難の業だそうだ。
ならば三段撃ちは、誰が言い出したのか。先に引用した信長の下知は、小瀬甫庵『信長記』巻第八「長篠合戦の事」の一節である。『信長公記』と名称が似ているが、『信長記』は記録ではなく物語と考えたほうがよい。
『太閤記』も同様で、『川角太閤記』に比べて『甫庵太閤記』は史料性に劣るものの読み物として面白い。『太閤記』の定番、それが小瀬甫庵が書いた『甫庵太閤記』である。本日は甫庵ゆかりの地を訪ねることとしよう。
岡山県苫田郡鏡野町寺和田に「小瀬甫庵翁碑」がある。揮毫は文部大臣与謝野馨である。
後世の信長像、秀吉像に多大な影響を与えた小瀬甫庵。甫庵の描いたストーリーをヒストリーとして人々が理解したとすれば、甫庵は歴史をつくった男であろう。いったいどんな人物なのだろうか。説明板を読んでみよう。
太閤記著者小瀬甫庵翁略歴
永禄七年(一五六七年)日上山城主小瀬勘兵衛政秀の長子として生まれた。幼少より向学心に燃え儒学者藤原惺窩に師事、併せて医学、軍学、史学、易学にも長じた。若年より宇喜多氏に従い多くの武功があった。一時豊臣秀次に医術を以て仕えたといわれる。
又堀尾吉晴に仕えたときは松江城構築に功があった。吉晴亡後は浪人して政治、道徳の正道を求め学問の研究著述に専念し多くの著書を刊行した。
晩年加賀の前田利常に仕え名著書太閤記を公にした。寛永十七年(一六四〇年)七十七才で没した。
日上山城史跡保存整備委員会
仕えていた宇喜多氏を通じて、信長や秀吉の情報を入手したのだろうか。尾張から遠い美作出身とは思えないくらいの情報収集能力である。生まれ故郷の日上山城は石碑の背後に見える山である。登ってみよう。
同じく鏡野町寺和田に「日上山城跡」がある。岡山県道392号百谷寺元線を押さえる好立地である。
この城に拠っていた小瀬勘兵衛政秀の長子が小瀬甫庵であり、宇喜多氏に仕えていた頃は小瀬中務と呼ばれていたらしい。『備前軍記』附録には、次のように記されている。
小瀬中務も、禄千石にて心ばせもありしといふ。宇喜多家亡びて浪人し、剃髪して甫庵といふ。信長記太閤記を記せし者也。惺窩先生の門人なりしといふ。惺窩も秀家卿秀秋卿の時、岡山へしばし下り居られしとぞ。
ところが、小瀬甫庵は尾張出身というのが定説である。最新の研究でも『太閤記』の小瀬甫庵と宇喜多家臣の小瀬中務は別人であることが明らかになった。『備前軍記』が別人の前半生と後半生をくっつけたことから誤解が生じたのだ。
同様に『信長記』が鉄砲の三段撃ちを記したがために誤解が生じた。これが甫庵の創作であるならば、その筆力を大いに讃えなくてはなるまい。歴史は解釈だから、多くの人を納得させたもん勝ちなのである。ただし、見事な戦法を創作した本人の人生が創作されてしまった。これには甫庵も苦笑していることだろう。
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