お市の方といえば、天下一の美人であったというイメージが定着している。おそらくは、あの有名な肖像画、高野山持明院蔵「浅井長政夫人像」(重要文化財)に見られる美しさによるものだろう。娘の淀君が母の七回忌の追善供養を行った際に奉納したものと伝えられているから、本人の面影を伝えているのであろう。
福井市西木田二丁目の如意輪山願應寺自性院に「お市の方碑」がある。
お市の方は、天正11年(1583)に夫・柴田勝家とともに北ノ庄城において自害して果てた。法名を自性院微妙浄法大姉という。このお寺、自性院はお市の方の菩提寺であり、院号は法名に由来している。
『甫庵太閤記』「勝家切腹之事」でその最後の様子を読んでみよう。
勝家
「御身は信長公之御妹なれば出させ給え。つゝがもおはしますまじき」
小谷御方(お市)
「去秋の終り、岐阜よりまゐり、斯まみえぬる事も前世之宿業、今更驚べきに非ず。こゝを出去ん事、思ひもよらず候。しかはあれど三人之息女をば出し侍れよ。父之菩提をも問せ、又みづからが跡をも弔れんためぞかし」
彼四面楚歌の夜の夢、楚王虞氏がふかき恨も、かくやと思ひ出にけり。何も櫓々へ引入、まどろまんとすれば、はや郭公雲井に、おとづれ、別れをもよほし侍るに、
小谷御方
「さらぬだに うちぬる程も なつの夜の わかれをさそふ ほとゝぎすかな」
勝家
「夏の夜の ゆめぢはかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公」
「そなたは信長公の妹なれば城から出られよ。厄災もないであろう」
「去年の秋の終わりに岐阜からまいり、このようになっていることも前世からの定めにございます。今さら驚くことにございません。城を出ようなど思いもよらぬこと。とはいえ、三人の娘だけは逃がしてやってくださいませ。父の菩提を弔い、そして私の後のことも託したく存じます」
あの四面楚歌の故事のおり、夜に項羽と虞美人が抱いた嘆きもこのようであったかと思い出される。誰もがそれぞれに寝所へ入り少しうとうとすると、はやくもホトトギスが空を飛んで別れをせきたてる。
「そうでなくても短い夏の夜なのに、ホトトギスは別れをせきたてるのね」
「私の人生も夏の夜の夢のようにはかないものであったが、ホトトギスよ、せめて名だけは遠くまで届けておくれ」
お市の方は、同じ福井市内の西光寺にある柴田勝家の墓に柴田一族と共にも合祀されている。西光寺は勝家の菩提所、自性院はお市の菩提所ということだ。義に生きた戦国の佳人の菩提は、福井の人々と観光客が今も手厚く弔っている。
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